思想史と歴史的存在論3

EM/CAの研究者(学部生、院生ではない)がこんなことをよく質問/批判してくる。


1;言葉だけ研究して、活動を研究しなくていいんですか?

2;歴史の分析は結局時間の流れを見渡す超越論的視点を前提することになるのではないですか?

3;事実(の意味)認定のための判定基準がなくていいんですか?(恣意的に事実認定してませんか?)


今から20年前、EM/CAは社会学者に延々とこうした質問をされていたことを考えると、EM/CA研究者がかつて言われていたことを他の研究者に向かって言える時代になったというのは感慨深い。だが、こうした質問ができるのは、EM/CA研究者が自分がしていることをちゃんと把握していなくても研究できるようになっているからではないか? EM/CAの様式化(伝統芸能化)が進んでないか? 考えてみれば、新陳代謝の激しい社会学業界内で半世紀近く、一つの理論的ポジションが大した波瀾もなく生き残っているのは奇跡に近い。EM/CAは実は不幸な境遇にあるのではなく、逆に多幸症的境遇の中にあるのかもしれないよ。


次の点を考えてからもう一度質問せよと言うことにしている。

1→CAはある意味言葉だけ研究しているが、CAにも活動が欠けているのか? 言葉を活動として分析することが最重要の問題なのではないのか?

2→会話も短いながら時間の流れ(時間幅)を含んでいるが、ではCAも超越論的視点を前提するのか? 社会的研究において超越論性を前提しないとは結局のところ何をすることか、理解した上で言っているのか?

3→CAがある発話を「疑問」と同定しつつ議論を展開する際、その同定根拠を逐一示して議論をしているのか? CAはそうした同定を自然な理解として前提して、その発話がその意味を帯びて立ち現れる会話の組織(方法)を分析しているのではないか? 確かに、歴史の研究は自然な理解を完全に利用することはできないが、ワークのEMはやはり自然な理解を完全に利用できない状況でも、組織(方法)の研究をしているのではないか?