科学の予期的-回顧的概念

こんな風に考えている人がたくさんいる。

科学は疑似科学(非科学)ではない――科学はこの差異化の中にのみある。科学はその遂行のただ中においては疑似科学と区別が付かない(将来、疑似科学とされるかもしれないから)以上、科学の現在進行形の実践を見ても、科学は分からない。一定の評価を得て、差異化が達成されて、初めて、科学は科学の身分を得る。だから、科学を理解するためには、その現在進行形の実践に対する「集合的反応」を見る必要がある。科学はたえずその実践に遅れており、回顧的にのみ出現するのだ!

こうした、活動の意味は活動に遅れてくるという発想――現象学的と言いうる発想(eg.Brannigan)――は科学概念に限らず、社会学の至る所に蔓延っているが、こんなことを信じている人は次の事実を少しでも「真剣に」考えたことがあるのだろうか、と思う。それは、(科学の)現在進行形の実践の中に、すでに科学概念が(可能的、偶発的身分でありながら)指向対象として存在しなければ、その実践がなされようはずがないという事実である。実験室で実験を繰り返す科学者は、科学を指向せずに、それを行うことができるのか? 

「無論考えている」と、科学の回顧主義を主張する人は言うだろう。そして、「ただ、その時、一定の留保がなされるだけだ」と。「科学的活動を現在進行形で営む人々は虚偽意識に囚われているのだ」とか、「科学概念は「本質的に」欠損を抱えておりたえず追補を必要とするのだ」とか。

なるほど、確かに考えている。しかし、私からすると「真剣に」では断じてない。なぜ単純な事実を留保なしに肯定できないのか? この事実に対するいい加減さ、これこそ懐疑主義と言われるものの核心だろう。

科学概念における「集合的反応」の役割を否定する必要はない。科学は現在進行形の実践から、集合的反応に至るまでの全域に根を張っていると考えればいいではないか? そのいかなる地点においても、科学は科学なのだと考えればいいだけではないか? ここにも、あそこにも、至る所に科学はある。科学の核(本質)となる地点を取り出そうなどとせず、至る所、様々なコンテクストで科学を行う様々な実践があると考えればいいだけではないか?  私としては、この意味で、科学は予期的-回顧的概念なのだと主張したい。


以上、私(の論文)の科学に対する考え方が分からんという人がいるようなので、お答え致しました。


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20年前の本だけど最近、暇さえあれば眺めてる。今私にとって天才とは栗原はるみである。