思想史、科学史
思想史、科学史を書こうとするとき、誰でも気づくだろうはずなのに、誰もが無視しているように思われる単純な事実は、どのようなものであれ、対象とするある思想、ある科学が、まずその思想史、科学史を語っているという事実だ。
例えば、生殖補助医療の審議会議事録などというものを分析しようとしたとする。そのとき、その審議会記録を理解するためにはその審議会がどのようなコンテクストを持つのかを理解することが絶対必要だろう。だが、そのコンテクストをまず最初に、誰よりも精密に論証しているのはその審議会(の委員(厚労省職員を含む))だったりする。はたして、その審議会議事録を分析しようとするとき、その審議会自身が与えるそうしたコンテクスト説明をどう処理すればいいのだろう? 審議会議事録を分析するということを律儀に取れば、その分析はそうしたコンテクスト説明それ自体をも分析にかける必要が出てくるはずだ。しかし、コンテクストを独立に分析しようとすると、そこでもまたそれ自体がそれ自体のコンテクストを語っていて・・・。かくて、思想史、科学史の分析は無限に拡大してゆく。
しかも面倒なことに、審議会委員は自らのコンテクスト説明が正しいことを覆される可能性も考慮している。つまり、そのコンテクスト説明に対する反論がなされること、未来に歴史的な検証作業がなされることを予期している。そこで、その説明のための証拠を集めるのは無論、一方でその証拠をたえず産出し、他方で不都合な証拠はたえず消去しようとする。単に証拠(資料)の意味づけを操作するだけではない。場合によっては証拠(資料)自体を産出、消去してしまう。歴史的な研究の中で資料を探していると、あるべきと思われる資料が体系的に存在しないなどということに気づいたりすることがあるが、これは資料の産出、消去が巧妙に(としか言いようがないやり方で)なされているためだろう。かくて、ここでも、思想史、科学史の分析は無限に拡大してゆく。
対象それ自体がそれ自体のコンテクストを分析、設定し、それ自体を一つの時間軸に位置づけようとしているということから生じてくる、こうした困難は、対象にコンテクストを与えることで説明しようとする伝統的な社会学的な思想史、科学史のやり方――それが内在史的な方法であれ、外在史的方法であれ、さらには「人と思想」といった方法であれ――に根本的な反省を促すはずだ。資料がコンテクストを持つとはどういうことか、複数の資料が単一の時間軸を持つ(複数の資料が時間軸の上に並ぶ)とはどういうことかに対する反省を欠いた思想史的、科学史的な研究がもしあるとすれば、それがどれほど大量の資料を参照していたとしても、もはやナイーブなものでしかないだろうと思う。
社会学者は、ある分野Aの思想史・科学史的対象x、y、zに対して、xのコンテクストとして「実は」yがあり、そしてyのコンテクストには「実は」zがあり・・・と「隠された物語」を尽きることなく語るが、そもそもこうした物語化の妥当性はいかに担保されるのだろうか? それはすでにx自身が語っていたことではないのか? あるいはx自身が予期していたことではないのか。もしかしたらxは将来の学史分析家のまさにそうした物語化を予期して、そうした証拠のみを残すようにしたなどということはないか? 社会学的な物語はこうした、実は極めて実践的な問題を無視した、それ自体一つの特殊な(まさに思想史、科学史的に作り出された)視点に準拠したものではないか? それは超越的なvantage pointの産物ではないか?
恐らく、分析レベルの転換が必要なのだと思う。こうした問題に直接回答し、どうすれば‘正しい’思想史、科学史を展開できるのかクソ真面目seriousに考えてもしょうがなかろうと‘個人的には’思う。恐らく、考えるべきこと、そして少なくとも個人的に考えてきたこと、考えたいことは、「資料がコンテクストを持つということ、複数の資料が単一の時間軸を持つということ」、これ自体を、具体的な事例の中で、その場にいる人々の作業として、再記述するということなのだろうと思っている。