概念の研究と表現の研究

概念分析は「使用される言語language in use」の研究だが、必ずしも「使用される表現」の研究であるわけではない。

無論「赤ちゃん泣いた、お母さんだっこした」という表現から「赤ちゃん」というカテゴリーの概念分析は出来る。が、かりにある場面をして「赤ちゃん泣いた、お母さんだっこした」という記述が可能であるなら、その場面で「赤ちゃん」という表現がかりに使用されていなくとも、その場面では「赤ちゃん」というカテゴリー(概念)は有効であると当然言う必要があるだろう。概念分析はこうした可能な記述を対象としているのであって、現実的な表現を対象としているわけではない。

概念の有無は表現の現実的な有無とは関係がない。だから、ある音声データ、映像データ上に、ある言葉が現に使用されているかどうか、つまり表現としてそこに存在するかどうかは、概念分析においては実はどうでもよい。あるいは、必要不可欠なものではない。

この概念と表現という区別を無視する、混同すると、ある表現が出現するデータを集め、そこからその表現の意味はいかなるものであるか、これを読み取ろうという問題設定に陥る。ここから、例えば「戦後のxx新聞における『社会』という言葉の使用を網羅的に調べ、どのような意味で使用されているか明らかにしよう」という量的調査問題設定はもう一歩でしかない。こうした問題設定は、そもそも対象となる表現に対する懐疑的態度(その表現が分からない)をベースとしており、その「自然な理解」を問うサックス的な問題設定とまったく違うことに注意するべきだ。サックス的問題設定を採るなら、例えば、「現代日本における「社会」という言葉の「自然な理解」は、いかに達成されているのか」と問うべきなのだ。

・・・と思いますが、いかがでしょう?

まあ、本当の問題は、調査対象が(常識の運用では処理できない)専門領域(ワークプレイス)、歴史領域に拡大されたとき、どう考えるべきかということなわけですけど、・・・略・・・。