科学という活動

人間に関わる科学はいつも前のめりによろよろ進んでいく。科学は誰も知らないことを記述することを目指すのだから仕方がない。言い方を変えれば、科学には「旬」があると言ってもよい。だから、旬を過ぎた科学ほどつらいものはない。5年前の、いわんや10年前の過去の自分の論文をリライトしたり、まとめたりするのが苦痛でしょうがないあなた、新しい知識を自分なりにまとめようと考えてるときが幸せなあなた。正しい科学者ですよ。 


科学が予期的構造を持つという事実がとりわけ顕著になるのが、特に新しい科学が立ち上がるとき。もう極端に前のめりだから、科学者はいろいろな露骨に変なことをたくさんする。一体どんなことか?――これが私の長らく研究テーマとしていることなのだが、この研究は科学的真理を貶めるような研究ではまったくない。そんなもの、どうでもいい。人々は真理のために何をするか、真理を使って何をするか、真理をいかに配分するか――こうした真理の機能(「構造の構造性」という大昔のデリダの言葉をもじって言えば「真理の真理性といったところか)が問題なのだ。
(どうも、私は、科学をけなすこと、「偉そうにしているけどしょせん人間科学者みんなバカ」みたいに言うことを目的としているように思われているようだが、そんなことはありません。ただ関心がないだけです。)


真理を語る言葉もしょせんは言葉(自然言語)。人は言葉のありとあらゆる素朴な機能、資源を動員して真理を語る。例えば「みんなで渡れば恐くない」式の言葉。新しい科学の構築は新しい評価基準の構築である。身内で言説を参照し合う、ほめあう、敵をけなす、排除するetcなんてのは小学生的だが、これはまったく基本なのだ。科学者のカテゴリーを所有するあなた、この自然言語ベースの実践、あなたも日々やってるでしょう?


そう言えば、90年代、エスノメソドロジストのマイケル・リンチという人が日本に来てセミナーを開いたとき、「ガーフィンケルは、エスノメソドロジーが70-80年代他の社会学者にぼろくそ言われてたし、そもそも人がいいから、来る者拒まず、everybody welcome!!だった。でも、そのおかげでエスノメソドロジーはぐちゃぐちゃになった」みたいなことを言っていた(同じことをどこかで書いていたような気もする)。なんと未熟な科学!!
(リンチは、晩年のガーフィンケルについても、「若い女が寄ってきたからっていい加減なこと言わないでくれよ」って苦々しく見ていたんじゃなかろうかって思ってるんだけど、本当のところどうなんでしょうね。) 


だから、科学は意外にと言うか、当然にと言うか、一番肝心なことが語られないで空白のままということがしばしばある。中心に巨大な質量を持つ空白部分があって、その周りを大量の言説が行き交うような。こうした空白を見つけることは、特に科学が立ち上がってゆくときの分析のポイントになる。いつどこで誰がどのように、語られてもおかしくない言葉を差し控え、遠慮し、押し黙るのか? 沈黙はれっきとした科学という活動だ。


科学の境界には論争があるなんて信じて論争史を一生懸命研究している人がいたりするけど、せいぜいそういう場合もある程度のことで、基本的には間違っている。科学の境界には論争などない。無視と沈黙と忘却と、さらに言えば一方的な毀誉褒貶、換骨奪胎があると考える方が正しい。ちょっと社会学者同士の関係を考えてご覧なさい。


無論、科学の境界で論争を組織してやろうとか考える人がいたりすることは当然ある。でも、そういう人がどういう身分で、いつどのようなときに、その言葉を語っているのか、よく見てみる必要はある。すると、そういう人はたいてい科学者とカテゴライズされず、編集者とかカテゴライズされているのに気がついたりする。かつて編集者に妙な権力があった時代があったが、それはこんな事情によるわけだ。科学者と編集者(出版業者)の関係は単に本を出す出さないの関係ではない。だから、間違っても編集者が科学者になろうなんて思ってはいけない。編集者の資質と科学者の資質は違う。


科学が立ち上がる時、こうした関係は露骨に耳目を引く現象として現れるが、やがて科学が通常科学となると、こうした関係がルーティーン化し、「見られながら気付かれないもの」とされてゆく。(「科学には見られながら気付かれない規範がある」とシュッツ的なことを言っているのではない。「「見られながら気付かれない規範がある」という信憑を科学は利用している」のだ。)中心の空白は言説を定常的に産出するために普通に利用される。そんなことに拘っていては、前に進めないではないか!


ついこの前までごたごたしていたのに、いつの間にかみんな忘れてしまう、というか、多くの科学者が忘れたふりをする。20年もたってから「昔、あのときあの人はこんないい加減なことを言っていた」なんて誰も言わない。科学は予期的構造を持つ活動なんだから、結局みんな適当なことを書き散らしているわけだ。昔の論文なんか間違いだらけだ。「昔の論文を今の規準で叩いたら切りがないだろ。みんな、そういう恥ずかしいことしているじゃないか。自分の昔を思い返してみろよ。やっぱり恥ずかしいだろ。」――これが大人の態度ってものだ。これも「みんなで渡れば恐くない」という能力の一つの現れと考えるべきだろう。ここにもいろいろ技術がある。忘却の技術の他、後知恵の技術なんてのもある。後から前に言ったことを「そんなつもりで言ったのではない」と自らのテクストを自ら解釈する。素晴らしい能力だ! 


いずれにせよ、こうした技術によって科学は必然的に回顧的構造を持つ。予期的であることと、回顧的であることとは異なる現象ではないのだ。科学者は真理を目指す。だから非真理と語られることは科学者たるもの絶対にあってはならない。だから、科学は知のシステムであると同時に、無知のシステムでもある。そして、その結果として、すべての科学は予期的かつ回顧的なのだ。そして、この時間的構造において、真理と権力が結びつく。


ウィトゲンシュタインが心理学を徹底的に解体したはずなのに、心理学は傷一つつかず今も存続しており、むしろ消えていった(いく)のはウィトゲンシュタインの思想の方だったというハッキングも指摘する皮肉は恐らく、こうした科学という活動の基本的なあり方と関係しているのだろうと思う。


さらに、真理の内容に無関心と言いながら、通常科学化したエスノメソドロジーという科学の運命はどうなんだろうと、ふと思ったりする。エスノメソドロジーの言説産出の方法はどのようなものなのだろう?――と、つい前のめりに考えてしまう今日この頃なのである。