高校生にも分かる「構築主義以降の社会学」

今年の3月頃、N氏経由で受けた「構築主義以降の社会学」というテーマの原稿依頼が重い。「原稿用紙150枚くらい」という条件も重いが、何しろ「高校生にも分かること」という条件が重い。高校生に「構築主義以降」とか話してどうする?ということも疑問だが、それより何より、「構築主義以降」ということは「構築主義」もそれなりに語らねばならないということで、ということは、「構築主義」と「構築主義以降」とを‘150枚以内で!'‘高校生にも分かるように!'誰が書けるか?と激しく疑問に思う。

どう考えても構築主義社会学とそれ以後の展開に対して‘理論的に’解説するなどということは出来ない。社会学理論を分かりやすく話すことに関しては相当自信がある(世の中には、簡単な内容を難解に言い換えることを目指しているとしか思えない理論家とやらが多すぎないか?)が、学部生に話すにしてもこのテーマでは相当の分量が必要になるし、高校生にも分かるようにとなるとさすがに自信がない。

また、私自身、理論的な事柄を「理論」として提示することにほとんど関心がなくなってしまっているという事情もある。理論的探求と具体的(経験的)探求という二分法にはもはや退屈さしか感じない。理論的そして難解と言われるような本を読んでその解釈を示してみせたり、いろんな学者の意見をみんな理解しているかのように一つの図式の中で語ってみせたりといったことを、いつまでもいつまでもやっている人が少なからずいるが、それって飽きない?と心底思ってしまう。恐らく、この手の人たちは、何か難解な(と言われている)本を読んでその解釈作業をしていないと、自分がバカになってしまう感覚があるのだろうが、本当は、この種の解釈作業ばっかりしてる方が愚の骨頂なのではないか?という気が私などしないでもない。まあ、昔は自分もそういうことを延々とやっていたので、また日々の糧のために大学では理論とやらを教えているので、さらにまた「じゃ、お前の主張通りにもっと文章書いてみろ!」と言われると何も言い返せないほど自分がものを書かない人間なので、あまり大きな声ではまったく言うつもりはないが、こういう人たちが巣くっているような場所にはできる限り出向かないようにしている。

となれば、むしろ「構築主義以降の社会学」をデモンストレートしつつ、そこにごくごくさりげない形で構築主義社会学構築主義以降の社会学との対比を織り込んでいく方がいいような気もする。確かに、<構築主義-構築主義以降>なんて区分は社会学理論家のもので、高校生(普通の成員!)には何の関係もない。なまじ社会学を知っている(というか、社会学に毒されている)人間を説得するスタンスで語ろうとするから話がややこしくなる。問題は、理論家が「構築主義以降」とか言っている行き方の知的な面白さをストレートに示せるかどうか、これだけのはずだ。しかし、問題は当然、「はたして、そんなこと出来るのか? >おれ」。

・・・というようなことを繰り返し考えて重い気分になるのが最近の日課なのであった。