「構築主義以降の社会学」(続)

構築主義以降の社会学」で煩悶している。煩悶しては別の仕事に逃避し、「でも考えなきゃ」と再び煩悶する――の繰り返し。完全にlowである。(私の場合たばこを吸っても脱出できないので、highになる薬が欲しいとか危ないことをふと思ってしまう。)頭がまったく先に進まず、煩悶している理由をまずはちゃんと考えねばならないという段階で煩悶している。

①EMで押しまくるわけにはいかない。会話分析+EMはN氏がやることになっている。そもそも依頼が私に来たその事情が――N氏が会話分析とEMの二冊を担当することになっていたのだが(確かに、これ以上の適任者はいないだろう)、会話分析とEMを分ける意味がないというので、「構築主義以降の社会学」などというものが急遽シリーズに組まれた――というものである。EMについて部分的に語ることは出来るだろうが、全面的に語るわけにはいかないだろう。(しかし、会話分析とEMの二分冊」じゃなくて会話分析とビデオ分析の二分冊として、会話分析をN氏、ビデオ分析をY氏とかにすればいいものを、そうならないところがいろんな人間関係が想像されて面白いよな。)

②その上で、EMとは別の形で「構築主義以降の社会学」をデモンストレートする、そしてその中に「従来の(構築主義の)社会学」との考え方の違いを盛り込むという方針を立てた。この構想自体は素晴らしいと我ながら思う。がぁ、しかしっ!!!、考えてみれば、その具体的分析の蓄積が私には(ほとんど)ないではないかっ!そもそも、EM以外でこの蓄積を持っていると自信を持って語れる人間が今の日本にいるか?思いつかない。今取り組んでいる研究会はこの方向に一歩を踏み出そうとする、おそらく日本で最初の――つまり、とてつもなく酔狂な!――試みだろうが、いまだポリシーの確認水準にあり(これはこれで重要なことなのは言うまでもないが)、現象の分析の具体的な手際を論じる段階にすら到達していない。この研究会ではこの「構築主義以降の社会学」に(便宜的に)「概念分析」という名称を与えているのだが、要するに、具体的なアウトプットに関してはまだ「海のものとも山のものとも」あるいは「行けるところまでがんばるっきゃないでしょう」的な段階にある訳である。

③まあ蓄積がまったくないというわけではなく、試論のようなものはあるので、今仕込んでいる知識をこれに付け加えて解明編として、その前にポリシー編をくっつけて、できあがり!という手もあるが、はたしてそのアウトプットは「構築主義以降の社会学」の名の下に‘高校出たばかりの学部生向けテキストとして’通用するものとなるだろうか?まったく自信がない。

④この自信のなさが最大の煩悶の種なのだろうと思う。私の試論は一部では評判がいいが、何しろ読み手の能力に依存しすぎている。面白いと言ってくれる人間は相当の知識(とりわけ理論的知識)を持っている人間で、この知識がない人間にとっては凡庸と映るか、さもなければ「何をやりたいの?」だろうと自分でも思う。所詮、理論指向なのである。まさか、学部生向けのテキストで、一般的な社会学はこう考えるが、このテキストではそう考えないところが面白いところなんだぜ、とか言ったって社会学自体を知らないんだからそれだけじゃ面白くもおかしくもないに決まっている。私の試論のアイデア源となっているEMは(仮想)敵を論理的に攻撃するのは大得意なのだが、自らの行う解明それ自体が面白いものとなるのは至難ときている。

⑤結局、自分の具体的解明能力のなさという壁が立ちふさがっているわけで、我ながらどうしようもないとは思う。もちろん、この仕事を上手くやり遂げれば「概念分析」のこれ以上ない宣伝となる訳なのだが、脳みそはすぐによくならないわけで、思わず煩悶→逃避→煩悶…の連鎖に落ち込むのであった。