Windows10 1803アップデート

1607アップデートの時も修羅場だったが、今回も至る所で修羅場らしい。1607の時は対岸の火事だったが、今回は丸焼けになった。

5年前に買ったノートPCが、1803アップデート1回目失敗、2回目トライで再失敗して後、Windows10が正常起動しなくなった。この1週間膨大な時間を費やしている。

UEFIから可能なはずのすべてのオプションが実行できない。ハード逝ってるかも・・・でもアップデートをきっかけにハードまで逝くか?・・・などと思いながら、購入時に入った延長保証の期間を見ると、2018年3月末日まで。イヤな予感がする。

「修理費3万オーバーだったら直さない」と思いながら、馬場の修理屋に持っていく。と、「SSD逝ってます。SSD128G交換+Windowsクリーンインストで、2.9万です」。まったく上限ギリギリのラインを知っていらっしゃる。





大して使用していないノートPCの128G-SSD(64GB×2でRAID 0という珍しい構成)が5年で壊れるとなると、この5月頭に購入、使用期間1ヶ月強の日常使用PCの256G-SSDはどうなる?、と思って調べてみた。

SSDの総書込量;1409GB、総使用時間;164h

なんと 8.6GB/h !!!
TBW(Total Byte Written)=75TB=76800GB と仮定すると
予想寿命は 8930h
一日使用時間が8hとすると
1116日 !!!
3年じゃないか!!!

実際の耐久性能は公表TBWの10倍とか言われたりもするが・・・
やはりPCは5年買い換えが安心ということか・・・

あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください4 appendix

今から5年前「EMCA研ニュースレター」に、リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』をめぐるシンポの後、以下のような文章を寄稿した。「あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください1 3」を読んだ上で、読んで欲しい。
(ネット検索しても出てこないので読めないという方がいらっしゃったので(大雑把にはすでに公開しているんですが)、ここで公開します。(著作権上?)問題がある場合、お知らせ下さい。)


シンポジウムを振り返って


私は報告者に向けて2つの疑問を述べた。ごく簡単に振り返ってみたい。


1;リンチのシュッツ批判あるいはプロトEMの理解について

リンチは非懐疑主義的なウィトゲンシュタイニアンとして有名であり、その立場表明は第5章でなされているが、私が気になったのはその前段、第4章で(本書のキーワードとしてとりわけ有名な)<プロトEM vs.ポスト分析的EM>という概念ペアを導入し、そして前者の典型としてシュッツを批判する際の、リンチのデリダへの依拠である。


本書でリンチがデリダから何らかのインスピレーションを受けていることは疑い得ない。そのインスピレーションの核は恐らく、第1章末(p56)に現れる、(既存研究/社会学に対するEMの)「寄生」という言葉に表れている(ただし、この言葉は生物学を意識してのものでもあろうが)。そこでの記述は漠然としているが、これは本書末、結論で「回顧的な関係」として詳細に反復されている(p361)。そこでのリンチの議論を言い直せば;デリダ脱構築が既存の言説(形而上学)に寄生しているように、「ポスト分析的EM」も既存の分析に「寄生」している。EMの既存分析に対する「寄生」のあり方を詳述するのが本書なのだ――というところだろうか。本書の理解に、リンチによるデリダの受容、利用を考えることは必須である。


恐らく、多くのEM研究者にとっては、EMとデリダの関係は論じるに値しないものなのだとは思う。シャロックとアンダーソンは、すでに1991年にシュッツ論/現象学論を展開し、シュッツの学説史的位置づけ、および現象学の再記述方策を論じている(Sharrock.W.& B.Anderson.'Epistemotogy:Professional Scepticism' in Button,G(ed.)Ethonomethodology and the Human Sciences,Cambridge)。それは初期デリダが展開した現象学脱構築とは重なるところがまったくない。そして、このシャロックらの議論から十分予想できることだが、クルターは後の1996年、デリダをして「理論的刺激を与えるだけのものでしかない」と切り捨てている(Coulter,J.'Reply:A Logic for "Context"',Journal of Pragmatics,25))。


しかし、だからこそ、ここには本書におけるリンチの議論の特異性がある。リンチには、(本書出版年である)1993年の時点で、シャロックらのシュッツ論/現象学論を知った上でなお、デリダを利用してシュッツ/現象学に関して、そしてEMに関して語るべきことがあったのである。そして、それは本書において決して些末なことではなく、その核心に属している。一体それは何か? EMが「寄生的」であるとはどういうことか? リンチはどのようにシュッツを批判し、プロトEMを位置づけているのか?


本書を「読む」というのであれば、デリダを経由したこうした問題の考察は避けて通れないように思われる。


2;リンチの会話分析CA批判について

本書第6章で展開されるCA批判は非常に見通しが悪い。ただ、一点明瞭なのは、リンチがそこで、CAの科学としての身分を論ずるサックスの議論を修正することに拘っていることである。リンチのサックス批判は同章末p295の中段の記述に集約されるが、その要点は、ライルが『ジレンマ』の中で言う「ペンチを使うことは指に依存している(誰も指が能率が悪いからと言ってそれをペンチに置き換えようとは言わない)」という例え話を利用して言えば、(誰かがペンチを使う場面を取り上げて)指の使い方を‘ペンチの'使用から独立に説明する観察科学が成り立ちうると考えるならそれは間違いだということだろうと思う。指の使い方の説明はペンチを使う場面でペンチを使う能力を持った者にとってはペンチを使う指の使い方の説明となるのであって、そうした場面、そうした能力から独立して、指の使い方の説明があるのではない(だが、サックスはそう考えた)。リンチは、サックスのこの勘違いがCAにおいては修正されておらず、CAは観察科学として一個の独立した学問体系を構築しうるという信憑が体系的に維持されていると考えているように思われる。


この論点は第7章で論じられる「個性原理」、「固有妥当性要請」に繋がる論点であり、それゆえリンチのCA批判は、CAは個性原理の把握が甘い、あるいは固有妥当性要請に応えていない、と言い直してもよい。科学分野に「核となる活動/本質」など存在しないと力強く論ずる第7章の中で、固有妥当性要請に関して、リンチはp348中段で(ガーフィンケル自身の理解をも超えて)重要な指摘をしている。固有妥当性要請は「ある科学分野の核となる知識へとその科学に精通することで接近せよ」などということではなく、「EM研究者は(論文の)読み手との知識落差がある状況に適切に対処せよ」ということなのだ、と。科学的活動のどこでどのように日常的な実践が運用されているのかを示すには、その科学的活動に最低限入り込まねばならないが、同時にそこで生じたことの理解を読み手に共有してもらわねばならない。EM研究者は論文の書き手として、現象領域に読者を入り込ませる、練習課題を構築する苦労をしろ、というのがリンチが理解する固有妥当性要請なのである。確かに、この固有妥当性要求の主張は、CAのオーソドキシーから外れている。CAは、基本的に読み手の直観的理解を論文作成の資源として利用するからである。CAにおけるトランスクリプトの意義は、論文の書き手と読み手が共通して利用できる資源の呈示という点にある(トランスクリプトによって書き手も読み手も反復的にデータを検討できるとは、CAが延々と繰り返し主張してきたことだろう)。


以上のようにリンチの議論を整理すると、CAに対する疑問が具体的に見えてくる。最近「科学活動、専門活動のCA」と名付けうる研究は多い(ように思われる)が、固有妥当性要請という観点から見ると、疑問に思うことがある。それは、そうした研究がその対象フィールドとして、「素人」がいるフィールドを選ぶ傾向があるように思われることだ。例えば典型的には「医者が患者を診察する」といった場面。そこには患者という素人(非専門家)がいる。だが、「医者が患者を診察する」場面を記述する場合、固有妥当性要請を誰よりもまず先に考えているのは、実は、そのフィールドにいる「医者」ではないか? テキストの読み手(聞き手)との知識落差を考えて、自らのテキスト(発話)を練習問題、個別指導として、構築しようとするのは、素人(患者)に直面している専門家(医者)であろう。この状況で、日常的方法の説明は可能だと言われても、もうすでに専門家が知識落差を解消して、すべてを日常性に落とし込んでいるのだから、それは当然だろうという気もする。リンチは「実験室に行こう」(p365)と述べているが、実験室と診察室はそのポテンシャルにおいて大分違うと思う。


無論、これは診察室のCAがナンセンスだということではない。固有妥当性要請は決してEM研究者独自のものではないと考えることがここでは重要だ。固有妥当性要請は様々な活動の中でトピックとなり、またリソースともなる。そうした活動を記述するEM研究があってもよい。しかし、それはリンチが本書で求めていることとは異なるだろうということだ。CAはこうしたことをどれほど意識的に処理しているのだろうか?


もう少し具体的に言おう。例えば、固有妥当性要請に応えようとするとき、トランスクリプトはどのような意味を持つのか? 「練習課題、個別指導の一部として」という回答が予想されるが、このようなトランスクリプト概念の変化は、論文内でどのようなトランスクリプトの使用法の変化として現れるのか? CAはかつて延々とトランスクリプトの意義について語ったはずだ。それはCAの重要なポリシーの一部をなしていたはずだ。科学者/専門家の活動を研究すると言うとき、トランスクリプトはいかなるポリシーの下に現れるのか?


恐らく、こうした疑問はCAのみが回答義務を負うものではない。EMにおいてトランスクリプトは重要な記述デバイスとなっている。自分が単純に昔通りのCA的作法の延長でトランスクリプトを掲げているというのなら、過去の遺産である議論を丸暗記しておけばよい。だが、リンチの固有妥当性要請に応えようというのなら、そうはいかない。リンチがCAに向ける問題提起は、CAに限らず、現代のあらゆるEM研究者が考えるべき問題であるように思われる。


以上述べた2つの疑問は、多くのEM/CA研究者に一方で非経験的、他方で無用に論争的と忌避されるかもしれない。しかし、リンチ自身が本書を「もっぱら論争的でプログラム的なもの」(p360)と規定しているのだ。こうした疑問こそ本書におけるリンチの意に適ったものであると私は思う。

あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください3 memo

Liberman2013

It is true that Garfinkel was highly distrustful of all theorized accounts. He once told a seminar (Garfinkel, 1979–80), “I’ll kill you if you theorize. If anybody comes in with a theory, I’ll burn it publicly.” Nevertheless, he read social theory all of his life and was especially given to reading the phenomenological masters, especially Husserl and Merleau-Ponty, but also Heidegger, Schutz, Gurwitsch, and Derrida.


Carlin2014(review of Liberman2013)

Liberman (pp. 4–5) asserts that Garfinkel was committed to careful readings of phenomenology. What we cannot do, however, given Garfinkel’s policy of ‘‘deliberate misreading’’, is ‘‘reconstruct’’ what he derived from these texts, what Garfinkel (Hinkle et al. 1977) would have termed the ‘‘pedagogic interest’’ in his work.


appendix
While seeming a step back, this brilliant book is a major advance. However, when Liberman argues that ‘‘Since Husserl himself kept respecifying his project, it would be foolhardy for us to freeze phenomenology in a final form circa 1938 that would disallow our own faithful respecifications’’ (p. 269), it is a shame such sagacity was not applied to Garfinkel.


appendix;Cuff1994

The work of Garfinkel's close associate, the late Harvey Sacks,is prima facie more directly helpful in that it can be seen not only to derive from ethnomethodological orientations, but also to focus directly on conversational materials. We detect, however, some strain between the approaches of Garfinkel and Sacks to the study of everyday settings. This strain is perhaps expressed in Garfinkel's description of Sack's treatment of conversational materials as "dealing with docile texts".

あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください2

ここ数年、EMそれ自体を実践として考えているのだがいくつかのことに気づいた。

1;80年代の状況

個人的な経験を言うと、80年代、私はEMに何の興味もなかった。EMの話題は周囲にいた複数の先輩がしていたので、ゼミ、研究会の報告、論文を通じて知ってはいた。が、それらは、私にはシュッツ的なものにしか見えなかった。私は、卒論でシュッツを批判して以来、修論でもシュッツ批判を全面的に展開した経験があり、まったくシュッツ的社会学をやる気はなかったので、EMも何が面白いんだかと思っていた。今でも、卒論、修論での私の意見は、書き方は無論稚拙だったが、間違っていないと思うし、80年代当時の日本のEM研究がシュッツベースだったという私の判断も間違っていないと思う。

そんなころ、あるとき、ゼミの先輩から「今こういうの研究会で読んでるんだけど来ない?」と渡されたのが、ガーフィンケルとサックスのあの有名なストラクチャー論文のコピーだった。リンチやシャロックがEMの最重要論文、最難関論文としている論文は、当時の私には歯が立たなかった(今でもはたして読めているのか分からない)が、少なくとも、シュッツとは決定的に違う何かがある感覚はあった。で、ガーフィンケルの『EM研究』第一論文を読んでみた。が、これはリンチが散文と呼んでる代物で、さらに本当に分からなかった。でも、当時分かっている人間は、日本には誰もいなかっただろう。だが、周囲の人間が言っているEMとはまったく違うEMがあるという感じはした。

修論は、今で言う解釈主義批判をしたのだが、指導教官の評価は「よく書けているけど、今後何をしたいんだ?」。シュッツ風の解釈パラダイムは根本的に間違っていると思っており、「今後」と言われても、当時の日本の社会学にはその「後」は何もないというのが個人的な判断だった。「じゃ、何で、社会学の院に行ったんだよ?」と言われそうだが、その「後」が学べると思ったのが社会学の院だったとしか言いようがない。

ところが、このころ、社会学は妙に流行期に入っていた。妙ちくりんな理論系社会学が大流行した。今では信じがたいが、私がドクターに入って最初に学会発表した理論系部会は、200人は入る教室がぎっちりいっぱいで立ち見は当然、人が教室に入りきれないという有り様だった。でも、私には、当時の社会学の流行は、これはこれで、アクロバットか手品としか見えなかった。デリダフーコーの後に、どうしてこんなベタな社会学が来るんだよと思っていた。当時のある手品師の修論は原稿用紙換算1200枚、概要400枚だとか噂になっていたが、それを聞いた知り合いの教授が「じゃ、概要を(修論として)出せよ」と笑ったのをよく憶えている。手品師の真似をする気もなかった。

要するに、私は早すぎたってことでしょうね。つらい時代でした(笑)。今のEM研究者なんて幸福です。解釈主義批判、表象主義批判とか、100字くらいにまとめて軽いノリで語ることができるんですから。この手の言葉は定番化していて、周囲が好意的に理解してくれますし。これが80年代なら、訳の分からない形で勝手に「理解され」、ほんの一部で評価され、圧倒的大多数に袋にされます。思いもよらぬ形で「理解されてしまう」こと以上の災厄はないなと思いましたよ。このころ、デリダフーコーを絡めて(後で社会学評論に掲載される論文の原型の)報告をしたら、こちらの言うことを聞こうともしないある手品師に、1時間まるまるシステム論風の(報告者になりかわっての報告の)解説(!)と説教をされた経験なんてそうあるもんじゃないでしょう? 

そんな80年代の暗さが残る90年代初頭、リンチが出版した『科学実践と日常行為』は夜明けの光を与えてくれた。自分が考えていたことのすべてがそこにはあり、そのすべてが基本的には正しいと分かった気がした。無論、分からないことはたくさんあり、そのアウトプットまでは長い時間がかかるのだが。






(続)

あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください

リンチは最近は言わないが90年代繰り返しこういうことを言っていた。

 一九七五年夏のある学会で、ハーヴィ・サックスは、ある種の質問-解答連鎖の組織に関する公開講義を行った。講義後、聴衆の中のある紳士が立ち上がり、「もし私があなたの頭に銃を突きつけて、『あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください』と言ったら、あなたは誰の名前をあげますか」といったような質問をした。サックスはタバコを吸いながら(当時はまだアメリカで喫煙が許されていた)、黙っていた。彼は、うつむき、タバコを灰皿の縁に置いて、ずっと押し黙っていた。この状態が一、二分続いたのだが、それは永遠に続くかのようにも感じられた。この沈黙は何かを生み出すためのものだったと言うのでは不十分である。この沈黙の時間は、子供を生み育て上げられる時間ほどにも思われたのである。ようやくのことで、サックスは顔を上げ、質問に答えることはできないと静かに言った。

………

 この出来事は、理論化に対するエスノメソドロジー固有の---人によっては‘尊大な’と言うであろう---態度を象徴するものである。ここで「理論化」ということで、私は、著名な著述家、基礎的な文献を讃える知的系譜を構築する作業のことを意味している。これは、文献群に経験的研究を指示するという、より広範な努力の一部をなすものである。この指示の作業は、抽象的な主題や問題を同定し、命題や公準を定式化し、共通する問題を明確化し、仮定や前提をある著者、ある学派に帰属させようとする学問的努力によって促進される。この作業は、ある文献データを入力したり解読したりするということに限定されるものではなく、それは方法論、つまりは研究構想を学問的伝統に結びつける基
準、決定規則、モデルの使用にも関わっている。このような試みの要点は、基本的規則を取り出し、社会思想における何らかの文献伝統に対して知の歴史を構築することである。自然科学や社会科学には、このような要約的定義に合致しない理論の実例がたくさんあるかもしれないが、私は、これは社会理論や、社会科学の哲学の支配的なスタイルにあてはまると思う。
 この理論化の要請をエスノメソドロジストはいつも拒絶しているわけではない。我々はほとんどみな、文献の系譜を再構築し、エスノメソドロジーの研究が一般的な社会学的、哲学的問題にどのように関連しているのかを議論することが必要であり、興味深いことでさえあると考えるときがある。サックス自身、折に触れてこれを行った。
 しかしながら、エスノメソドロジーの研究プログラムを哲学や理論や経験的研究の先行者へと遡及させようとする試みによっては、サックスの拒絶が明確化したことを解き明かすことはできないと私は思う。サックスは単に自分の思想の源泉を明らかにできなかったのではなかった。そうではなく、彼は、思想の源泉が学問的系譜の中にあるに違いないという対話者の前提を受け入れることを拒絶していたのである。
 理論的に語れ---社会思想の文献伝統に同一化せよ---との要請に対するエスノメソドロジーの沈黙は、あまりにも容易に、エスノメソドロジーは非論理的だという見解を助長してしまう。以下論じるが、仮定や前提を明らかにしたり、文献的系図を描くことを不作法に拒絶し、沈黙することは、前提なしに研究しようという素朴な試みによって動機づけられるものではないし、また、エスノメソドロジストは世界をいかなる先入観も偏見も持たずに何とか探求するのだという、考えてみればいい加減な示唆を表すものでもない。私見では、この拒絶はそのようなことではなく、文献的知識という特異な、そして徐々に受け入れがたいものとなっている概念と結びついている。理論的に語るべしという要請に応じることの拒絶は、エスノメソドロジーが前提を持たないなどということではなく、その要請、つまり「あなたの考えが何に由来するのかを述べよ、もしその知識がないなら、我々がそれを述べられるようヒントを出せ」という要請にまつわる居心地の悪さと関係があるのである。このような要請は、「思想」というものは一つの、もしくは二、三の簡潔な文で表現されるべきだということを要求しており、さらにこの要請は、今ある思想は学術書を書いた有名な著作家によって表明された、関連する思想に由来しているということを仮定している。この要求が人間科学において支配力を有している限り、エスノメソドロジーがこの要求を拒絶しても、他の者がエスノメソドロジーに成り代わって文献伝統を構築しようとする機会が生み出されるだけなのである。

………

 エスノメソドロジーは過去40年間少しずつ分裂していき(Maynard & Clayman,1991)、かつて緊密に統一された研究プログラムであったなどとは信じがたいほどである。恐らく、ガーフィンケルエスノメソドロジーのプログラムを代表して語ることは適切であろう(Garfinkel,1996)。結局のところ、エスノメソドロジーは彼が産み出したものなのだ。しかし、ガーフィンケルの著作を洞察し得る者がほとんどいない以上、そして彼の教えを一貫して追求してきた者はさらに少ない以上、ガーフィンケル以外の者にとって相応しいのは、エスノメソドロジーを説明する方法を修正してゆくことでしかない。そこで、私は、私がいかにエスノメソドロジーのプログラムを理解するようになったかを詳述し、これによってエスノメソドロジーの理論に対する拒絶を論じてみたいと思う。


このリンチの言葉は、「お前はマルクスを知らない」と言われたフーコーが反論して、「お前らは『ある「作者」がいる』ということ、『ある一冊の「本」がある』ということがどういうことか、そこにどれほどの実践がなされているか、考えたことはあるのか」と言ったという逸話を想起させる。こんなことをリンチが言っていたということを、EM研究者(を自認している者)は憶えているだろうか? 知っているだろうか? リンチが指摘する問題を真面目に考えたことがあるだろうか? 恐らく、ほとんどのEM研究者は、こうしたリンチの問題提起を真面目に考えていないと思う。

昔々リンチを読み始めた院生の頃、先輩のNSZK氏に「リンチってEMの極左でしょ」と言ったら、「極左か極右か分からないけどぉ、過激派ではあるねぇ」と返された記憶があるが、伝統の破壊という点ではやっぱり極左だと思う。正確には、恐らくリンチはその伝統(学説史)とやらを否定するつもりはなく、それが一つの実定性を獲得する際の実践を研究せよというだろうから、リンチの立場は手続き的にはデリダ的「脱構築」、内容的にはフーコー的「系譜学」に近いと言うべきだろうが。




EMは突き詰めれば人々の理解の方法に関する研究だ。そして、その着眼の基礎は、活動の自己解明性(自己組織性)だ。人々は自らの活動を自らの活動の中で自らの活動として理解可能としている。我々の社会の客観的事実はこうした活動を(フーコー流に言えば、その「実定性」の)基礎としている。この方法手続きをその人々と同じ身分において詳述することがEMのポリシーだ。ガーフィンケルが、『EM研究』第1論文「EMとは何か」の最後で、定冠詞をつけて語るEMのポリシー(The policy)は、まさにこのことだろう。こんなこと、EMをちょっと勉強すれば、誰だって分かるし、語ることができる。

ところが、こんなEMの基礎ポリシーを、ほとんどのEM研究者は自らのEMの実行それ自身に応用することができない!ガーフィンケル流に‘誤読'された「社会的事実の客観的現実は社会学の根本原理である」というデュルケムの言葉は知っていても、それを様々な学問、そしてEMそれ自体に応用することができない。

EMも、それとして一つの実定性を持つ以上、それは活動の方法手続きとして「まず最初に」考えられねばならないはずだろうに、これを考えられない。そして、この問題をすっ飛ばして(あるいは無視して)、「EM」と「X」との関係とか、「EM」に対する「X」の影響とか、(リンチの言い方では)「社会思想の文献伝統」とやらを「まず最初に」考えようとする。そうした問題が「EM」にせよ「X」にせよ、まずは活動の方法として存在している学術集体であるということを忘れて問題化する。こうした問題を立てるとき、すでに「EM」の存在、「X」の存在が前提され、かつ「EM」と「X」とを包括する一つの空間が前提されているということを何も考えない。こうした前提を暗黙裏に立てることが、「学問」というものを立ち上げる一つの手move(実践)になる、「社会思想の文献伝統に同一化」することなのだと気づかない。サックスがデュルケムの自殺の定義、ウェーバーの客観性の定義が彼らの専門的学問を開始する手になっていると指摘したことは、知識としては知っていても、自らの実践にまったく反映させることができない。





恐らく、多くのEM研究者は、「こんな問題を考えて何の役に立つんだ」「何でそんな問題を考えねばならないんだ」と反論するのだろう。しかし、これはEMのロジック、ポリシーの帰結だ。だから、こういう反論をしたい人は、EMのロジック、ポリシーよりも優先するものがあるって自認しているようなものだ。つまり、実はEM研究者ではない。

しかし、面倒なのは、あらゆる学術的な実践につきものだが、こういうEM研究者もどきがEM研究者の代表といった顔をしていることだ。確かに、学問は様々な雑多な活動の集体だ。こういうEM研究者もどきがEM界隈にたくさんいて、その活動もEMという統一体に無関係ではない。「エスノメソドロジーがこの要求[社会思想の文献伝統に同一化せよ]を拒絶しても、他の者がエスノメソドロジーに成り代わって文献伝統を構築しようとする機会が生み出されるだけ」というわけだ。恐らく、EMは、EMもどきに対して、その自らの反論がどういう実践的な手となっているのかということを、いつまでも教示し続ける必要があるのだろう。EMもどきは色々な活動の形で限りなくわいてくるに違いない。恐らくだが、リンチとCAとの最近の論争の根は、結局こういうところにあるんだろうと思う。

リンチの『科学的実践と日常的行為』にも先の引用とほぼ同じことが書いてあるが、もうその出版から25年がたった。EM研究者の宿命とは言え、リンチもいいかげん面倒くさいと思っているだろう。




ところで、前から不思議なのだが、日本では「専門はEMとZイズムです」とかいう人がいる。EM研究者であり、かつ学問的に政治的Zイズムの主張もしてるとかいう感じで。例えば、リンチが自身を「EM研究者でありかつ革新派モラリストだ」とか言ったら、後者はプライベートの問題なんだろうと理解するわけで、研究者として両者を両立させているなんて誰も思わないだろう。EMって研究者の能力の半分でできるほど、チョロいものなのか? そんなバカな(と思うでしょう?)。でも、日本では、こういう人が存在するし、これを要求する人もいる。どうして頭の中にEMと構成的分析が共存しているのか、それを要求するのか? 訳が分からない。結局、自分のやっていることをよく考えていない、あるいはEMを実践することをなめているんだろうとしか言いようがないと思う。EMもどきの一形態と言ったところか。

昔々、EMとX主義両方研究者としてやっているという某氏と話をしていて、「・・・は、ポストヒューマンの時代が・・・とか言ってる」なんて言うんで思わず「あはは」とか笑ったら、すごいシリアスに「ハラウェイだってそういうこと言ってるでしょ」と説教をされた。「え、今は、EM研究者じゃなくて、X主義者かよ。額の真ん中に点滅式のサインでも出しておいてくれよ」と思った。EM研究者が「ポストヒューマン」の研究してますとか言ったら失笑ものだろうが、X主義者としてはシリアスな話題になるわけだ。この種の人は面倒くさくていけない。




かつて、ある若手EM研究者が、EMを勉強し始めたときのことを話してくれたが、彼は「最初は論文をどう書けばいいのか全然分からないので、一生懸命EM論文を真似て書いては、それを研究会で発表してぶったたかれることを繰り返した」と言っていた。どんな学問もそういうところがあるが、論文作成フォーマットを持たないEMはことさら書くのが難しい。彼のしたことは正しいEMの学び方だと思う。そういう苦労をみんなしてEM論文を書ける、EMを実践できるようになるんだと思う。

で、次の問題は、EM研究者は、まさに様々なEM文献が示すとおり、その時、自分は何をどう考え、何をしているのか、ということになる。つまりエスノメソドロジー的にエスノメソドロジーを分析すること。一体いかにエスノメソドロジー研究家はエスノメソドロジーを書いているのか? リンチがガーフィンケルの提唱した「固有妥当性要求」を「読者に方法を適切に教示すること」つまり「EMを適切に書くこと」と定義したことの理由が分かろうというものだ。聞くと語るは違うが、話すと書くもまったく違う。こういうことをちゃんと考えておかないから、EMのつもりでいつの間にかEMもどきになっちゃうわけだ。

無論、EMもどきの仕事を全否定するつもりはない。もどきをすることも状況によっては必要なときはある(私もさんざんやりました)。そして、EM研究者は、ある部分、必然的にEM研究者もどきでもある。だから、重要なのはもどきの自覚なのだ。そして何かあれば、もどきではないEMを語り、書けるということなのだ。もどきではないEMを書くこともできず、自分のしていることがもどきであることも分からず、真面目なEM研究をしようとする者に対して意見する・・・なんてことは止めて欲しい。そのためにも、EMそれ自体の実践について考える必要がある。これは自分の過去を振り返って思う、自戒の言葉です。



(続)

介護メモ

親が1ヶ月半の入院を終え退院することになった。


3月頭
地元のクリニックから電話
1ヶ月以上高熱(38〜39度)が続いており、抗生物質を使っても下がらないので、検査入院を、とのこと


4月3日入院当日
8:40東京発
10:10施設着
11:00病院着 受付 
11:30予約時間
13:00予約時間を大幅に過ぎてようやく診察、検査入院決定(予定10日)
14:00病院内コンビニで入院必要物一部購入、及び病衣レンタル契約(2週間)
15:30施設に経過報告、入院必要物回収
16:30病院に戻り、入院必要物搬入
1830東京着


13日退院予定日
病院から連絡なし
こちらからtel、看護師「医師からtelする」と言うも連絡なし


26日入院から4週間
病院から連絡なし
こちらからtel、看護師「医師からtelする」と言うも連絡なし


5月7日入院から1ヶ月
ようやく医師から連絡
熱は下がらず、心臓のCTを実施したい、詳細は直接面談で、と


5月10日
12:45病院着
13:00面会予約時間
13:30ようやく医師と面談
データを見つつ状況説明を受ける
発熱原因特定できず、さらに入院2週間延長
看護師、病衣がない+回収されてない、と指摘

14:30病院内コンビニに行き、レンタル病衣の件を質問
言い分は;病衣契約当初契約通り2週間で終了 レンタル業者は病院(看護師)と連携せず 業者からも病院からも連絡なしだが、業者は連絡する義務を負わない レンタル再契約は病院内コンビニでのみ 病衣回収は出されている限りのみ有効

熱で意識朦朧の患者にそれを要求するか? 結局、家族がたびたび来ることがすべて前提とされていることを知る

再度看護師の元に行き質問
入所施設で対処してもらえないのかと逆質問される
仕方ないので、入所施設へ直接行く

15:30施設にて
言い分は;レンタル再契約は不可能 病院訪問の義務なし 本来入院1カ月で退所要求できる 入所待機者いないので要求しないだけ
要するに何もする義務はなし
市に相談したらと言うので市介護長寿課へ行く

16:30市
言い分は;病院のソーシャルワーカーへ行け
さすがに少し切れる 介護システム間の連携不足、無関心、無知を指摘
しかし、連携を図る仕事はソーシャルワーカーの仕事の一点張り

19:00東京着
疲れる


23日(今日)医師から連絡
抗生物質+ステロイド剤投与で熱は鎮静
退院へ

ドライブレコーダー・ブーム

ここのところあおり運転が話題になって、ドライブレコーダーDRがよく売れているらしい。

車で走っていると実際、本当に信じられない光景を目にすること、そして恐い思いをすることが結構ある。

深夜中杉通りの真ん中で自転車ごとひっくり返って寝転がっている人間(酔っ払い)を見たこともある。手前で車を止め「大丈夫ですか?」と降りて声をかけたら「バッキャロー。向こう行ってろー」と返されたので、「ああ、そうですか」とその脇を車で抜けた。また、すでに赤信号になっているのに、青信号で走り始めた車に急ブレーキを踏ませて停止させ、片側3車線の目白通り交差点を自転車で爆走横断してゆく人間(オバサン)を見たこともある。目を疑った。

相手が車なら(物損事故)まだいいが、人間なら(人身事故)どうなるだろうと考えると、自衛手段としてDRをつけようかと最近真剣に考えている。

今までで一番恐かった経験はこんな感じ。


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今からもう15年ほど前。当時所沢に住んでいて都心から家に帰る途中。車は長く乗っていたレガシィワゴン2.0TS-R(BG5)(ヘッドライトはハロゲン)。時間は初夏の夜7時頃。場所は東京都小平市、青梅街道(上下片側2車線)下り。
https://www.google.co.jp/maps/@35.7366246,139.5194853,3a,75y,282.92h,91.49t/data=!3m6!1e1!3m4!1sgpvJsABrfyVuCVdWbV7BNw!2e0!7i13312!8i6656?dcr=0

ここは青梅街道の長い直線区間。制限速度は50キロだが、信号間距離も長く、スピードも出やすいところ。上り方向は大渋滞していて2車線とも極低速走行。夜なのでその渋滞する大量の車のヘッドライトが下り車線を走っていると非常にまぶしい。対して、たまたま下り車線はがらがら。前にも後ろにも車がいない。街灯もない直線道路の遠い先に青信号が見える。

まぶしさを感じながら中央より車線を60キロほどで走行。速度超過と言えば確かにその通りだが、通常の青梅街道の流れからしたらまったく普通以下の速度。

想定外は、恐らくは信号間の距離が長いせいだろう、横断歩道のある信号まで行くのが面倒で、信号機がない場所で上下4車線の青梅街道を渡ろうとする歩行者がいたこと。その人間(恐らく高齢男性)は青梅街道下り中央より車線のど真ん中に立ち、渋滞する上り車線の車の間を通るために、下り方向を見ながら車が停止するのを待っていた。しかも、黒っぽい着物(和服)を着て! 

つまり、こちらからすると、その人間は、頭の先(頭髪)から足元まで真っ黒! しかも対抗車のヘッドライトはまぶしく、自車のヘッドライトは今では信じられないほど暗いハロゲン。その人間は完全に黒い影でしかない・・・。

気付いたときには目の前に人間がいた。ブレーキをけ飛ばすように目一杯急ブレーキを踏むと同時に左に目一杯ハンドルを切る。急ブレーキで前輪が瞬間ロックしてギッとスキール音がするが、ABSが間髪を入れずにこれをリリース。扁平率45の薄い前輪タイヤのショルダー部分がぐにゃりと歪むのが分かる。だがABSのおかげでタイヤを歪ませながらも車は左に曲がってくれた。急減速したが恐らく速度はまだ40キロ。その速度で、その人間の30センチ後ろをレガシィの右フロントフェンダーが抜け(ぶつかると思ったが)、次いで運転席サイドウィンドウを下ろせば手が届くところをその人間は通り過ぎていった。ABSがなかったら間違いなく衝突していただろう。最後までその人間はこちらを見なかったが、自分のすぐ後ろを車が通過したのは分かったはずだ。

「何だ今のは?!」と思った次の瞬間全身に大量の汗が吹き出した。

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あの時ぶつかっていたらどうなっていただろう? 青梅街道夜間、信号機のないところで道路を横断しようと、走行車線の中央に立つ人間、そしてその人間とぶつかる車。大きな人身事故(重症)。もしかしたら死亡事故。過失割合はどうなるのだろう? どのような処罰が来るのだろう? はたしてその後も車に乗っていられただろうか? 今考えても恐ろしい。