あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください2

ここ数年、EMそれ自体を実践として考えているのだがいくつかのことに気づいた。

1;80年代の状況

個人的な経験を言うと、80年代、私はEMに何の興味もなかった。EMの話題は周囲にいた複数の先輩がしていたので、ゼミ、研究会の報告、論文を通じて知ってはいた。が、それらは、私にはシュッツ的なものにしか見えなかった。私は、卒論でシュッツを批判して以来、修論でもシュッツ批判を全面的に展開した経験があり、まったくシュッツ的社会学をやる気はなかったので、EMも何が面白いんだかと思っていた。今でも、卒論、修論での私の意見は、書き方は無論稚拙だったが、間違っていないと思うし、80年代当時の日本のEM研究がシュッツベースだったという私の判断も間違っていないと思う。

そんなころ、あるとき、ゼミの先輩から「今こういうの研究会で読んでるんだけど来ない?」と渡されたのが、ガーフィンケルとサックスのあの有名なストラクチャー論文のコピーだった。リンチやシャロックがEMの最重要論文、最難関論文としている論文は、当時の私には歯が立たなかった(今でもはたして読めているのか分からない)が、少なくとも、シュッツとは決定的に違う何かがある感覚はあった。で、ガーフィンケルの『EM研究』第一論文を読んでみた。が、これはリンチが散文と呼んでる代物で、さらに本当に分からなかった。でも、当時分かっている人間は、日本には誰もいなかっただろう。だが、周囲の人間が言っているEMとはまったく違うEMがあるという感じはした。

修論は、今で言う解釈主義批判をしたのだが、指導教官の評価は「よく書けているけど、今後何をしたいんだ?」。シュッツ風の解釈パラダイムは根本的に間違っていると思っており、「今後」と言われても、当時の日本の社会学にはその「後」は何もないというのが個人的な判断だった。「じゃ、何で、社会学の院に行ったんだよ?」と言われそうだが、その「後」が学べると思ったのが社会学の院だったとしか言いようがない。

ところが、このころ、社会学は妙に流行期に入っていた。妙ちくりんな理論系社会学が大流行した。今では信じがたいが、私がドクターに入って最初に学会発表した理論系部会は、200人は入る教室がぎっちりいっぱいで立ち見は当然、人が教室に入りきれないという有り様だった。でも、私には、当時の社会学の流行は、これはこれで、アクロバットか手品としか見えなかった。デリダフーコーの後に、どうしてこんなベタな社会学が来るんだよと思っていた。当時のある手品師の修論は原稿用紙換算1200枚、概要400枚だとか噂になっていたが、それを聞いた知り合いの教授が「じゃ、概要を(修論として)出せよ」と笑ったのをよく憶えている。手品師の真似をする気もなかった。

要するに、私は早すぎたってことでしょうね。つらい時代でした(笑)。今のEM研究者なんて幸福です。解釈主義批判、表象主義批判とか、100字くらいにまとめて軽いノリで語ることができるんですから。この手の言葉は定番化していて、周囲が好意的に理解してくれますし。これが80年代なら、訳の分からない形で勝手に「理解され」、ほんの一部で評価され、圧倒的大多数に袋にされます。思いもよらぬ形で「理解されてしまう」こと以上の災厄はないなと思いましたよ。このころ、デリダフーコーを絡めて(後で社会学評論に掲載される論文の原型の)報告をしたら、こちらの言うことを聞こうともしないある手品師に、1時間まるまるシステム論風の(報告者になりかわっての報告の)解説(!)と説教をされた経験なんてそうあるもんじゃないでしょう? 

そんな80年代の暗さが残る90年代初頭、リンチが出版した『科学実践と日常行為』は夜明けの光を与えてくれた。自分が考えていたことのすべてがそこにはあり、そのすべてが基本的には正しいと分かった気がした。無論、分からないことはたくさんあり、そのアウトプットまでは長い時間がかかるのだが。






(続)

あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください

リンチは最近は言わないが90年代繰り返しこういうことを言っていた。

 一九七五年夏のある学会で、ハーヴィ・サックスは、ある種の質問-解答連鎖の組織に関する公開講義を行った。講義後、聴衆の中のある紳士が立ち上がり、「もし私があなたの頭に銃を突きつけて、『あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください』と言ったら、あなたは誰の名前をあげますか」といったような質問をした。サックスはタバコを吸いながら(当時はまだアメリカで喫煙が許されていた)、黙っていた。彼は、うつむき、タバコを灰皿の縁に置いて、ずっと押し黙っていた。この状態が一、二分続いたのだが、それは永遠に続くかのようにも感じられた。この沈黙は何かを生み出すためのものだったと言うのでは不十分である。この沈黙の時間は、子供を生み育て上げられる時間ほどにも思われたのである。ようやくのことで、サックスは顔を上げ、質問に答えることはできないと静かに言った。

………

 この出来事は、理論化に対するエスノメソドロジー固有の---人によっては‘尊大な’と言うであろう---態度を象徴するものである。ここで「理論化」ということで、私は、著名な著述家、基礎的な文献を讃える知的系譜を構築する作業のことを意味している。これは、文献群に経験的研究を指示するという、より広範な努力の一部をなすものである。この指示の作業は、抽象的な主題や問題を同定し、命題や公準を定式化し、共通する問題を明確化し、仮定や前提をある著者、ある学派に帰属させようとする学問的努力によって促進される。この作業は、ある文献データを入力したり解読したりするということに限定されるものではなく、それは方法論、つまりは研究構想を学問的伝統に結びつける基
準、決定規則、モデルの使用にも関わっている。このような試みの要点は、基本的規則を取り出し、社会思想における何らかの文献伝統に対して知の歴史を構築することである。自然科学や社会科学には、このような要約的定義に合致しない理論の実例がたくさんあるかもしれないが、私は、これは社会理論や、社会科学の哲学の支配的なスタイルにあてはまると思う。
 この理論化の要請をエスノメソドロジストはいつも拒絶しているわけではない。我々はほとんどみな、文献の系譜を再構築し、エスノメソドロジーの研究が一般的な社会学的、哲学的問題にどのように関連しているのかを議論することが必要であり、興味深いことでさえあると考えるときがある。サックス自身、折に触れてこれを行った。
 しかしながら、エスノメソドロジーの研究プログラムを哲学や理論や経験的研究の先行者へと遡及させようとする試みによっては、サックスの拒絶が明確化したことを解き明かすことはできないと私は思う。サックスは単に自分の思想の源泉を明らかにできなかったのではなかった。そうではなく、彼は、思想の源泉が学問的系譜の中にあるに違いないという対話者の前提を受け入れることを拒絶していたのである。
 理論的に語れ---社会思想の文献伝統に同一化せよ---との要請に対するエスノメソドロジーの沈黙は、あまりにも容易に、エスノメソドロジーは非論理的だという見解を助長してしまう。以下論じるが、仮定や前提を明らかにしたり、文献的系図を描くことを不作法に拒絶し、沈黙することは、前提なしに研究しようという素朴な試みによって動機づけられるものではないし、また、エスノメソドロジストは世界をいかなる先入観も偏見も持たずに何とか探求するのだという、考えてみればいい加減な示唆を表すものでもない。私見では、この拒絶はそのようなことではなく、文献的知識という特異な、そして徐々に受け入れがたいものとなっている概念と結びついている。理論的に語るべしという要請に応じることの拒絶は、エスノメソドロジーが前提を持たないなどということではなく、その要請、つまり「あなたの考えが何に由来するのかを述べよ、もしその知識がないなら、我々がそれを述べられるようヒントを出せ」という要請にまつわる居心地の悪さと関係があるのである。このような要請は、「思想」というものは一つの、もしくは二、三の簡潔な文で表現されるべきだということを要求しており、さらにこの要請は、今ある思想は学術書を書いた有名な著作家によって表明された、関連する思想に由来しているということを仮定している。この要求が人間科学において支配力を有している限り、エスノメソドロジーがこの要求を拒絶しても、他の者がエスノメソドロジーに成り代わって文献伝統を構築しようとする機会が生み出されるだけなのである。

………

 エスノメソドロジーは過去40年間少しずつ分裂していき(Maynard & Clayman,1991)、かつて緊密に統一された研究プログラムであったなどとは信じがたいほどである。恐らく、ガーフィンケルエスノメソドロジーのプログラムを代表して語ることは適切であろう(Garfinkel,1996)。結局のところ、エスノメソドロジーは彼が産み出したものなのだ。しかし、ガーフィンケルの著作を洞察し得る者がほとんどいない以上、そして彼の教えを一貫して追求してきた者はさらに少ない以上、ガーフィンケル以外の者にとって相応しいのは、エスノメソドロジーを説明する方法を修正してゆくことでしかない。そこで、私は、私がいかにエスノメソドロジーのプログラムを理解するようになったかを詳述し、これによってエスノメソドロジーの理論に対する拒絶を論じてみたいと思う。


このリンチの言葉は、「お前はマルクスを知らない」と言われたフーコーが反論して、「お前らは『ある「作者」がいる』ということ、『ある一冊の「本」がある』ということがどういうことか、そこにどれほどの実践がなされているか、考えたことはあるのか」と言ったという逸話を想起させる。こんなことをリンチが言っていたということを、EM研究者(を自認している者)は憶えているだろうか? 知っているだろうか? リンチが指摘する問題を真面目に考えたことがあるだろうか? 恐らく、ほとんどのEM研究者は、こうしたリンチの問題提起を真面目に考えていないと思う。

昔々リンチを読み始めた院生の頃、先輩のNSZK氏に「リンチってEMの極左でしょ」と言ったら、「極左か極右か分からないけどぉ、過激派ではあるねぇ」と返された記憶があるが、伝統の破壊という点ではやっぱり極左だと思う。正確には、恐らくリンチはその伝統(学説史)とやらを否定するつもりはなく、それが一つの実定性を獲得する際の実践を研究せよというだろうから、リンチの立場は手続き的にはデリダ的「脱構築」、内容的にはフーコー的「系譜学」に近いと言うべきだろうが。




EMは突き詰めれば人々の理解の方法に関する研究だ。そして、その着眼の基礎は、活動の自己解明性(自己組織性)だ。人々は自らの活動を自らの活動の中で自らの活動として理解可能としている。我々の社会の客観的事実はこうした活動を(フーコー流に言えば、その「実定性」の)基礎としている。この方法手続きをその人々と同じ身分において詳述することがEMのポリシーだ。ガーフィンケルが、『EM研究』第1論文「EMとは何か」の最後で、定冠詞をつけて語るEMのポリシー(The policy)は、まさにこのことだろう。こんなこと、EMをちょっと勉強すれば、誰だって分かるし、語ることができる。

ところが、こんなEMの基礎ポリシーを、ほとんどのEM研究者は自らのEMの実行それ自身に応用することができない!ガーフィンケル流に‘誤読'された「社会的事実の客観的現実は社会学の根本原理である」というデュルケムの言葉は知っていても、それを様々な学問、そしてEMそれ自体に応用することができない。

EMも、それとして一つの実定性を持つ以上、それは活動の方法手続きとして「まず最初に」考えられねばならないはずだろうに、これを考えられない。そして、この問題をすっ飛ばして(あるいは無視して)、「EM」と「X」との関係とか、「EM」に対する「X」の影響とか、(リンチの言い方では)「社会思想の文献伝統」とやらを「まず最初に」考えようとする。そうした問題が「EM」にせよ「X」にせよ、まずは活動の方法として存在している学術集体であるということを忘れて問題化する。こうした問題を立てるとき、すでに「EM」の存在、「X」の存在が前提され、かつ「EM」と「X」とを包括する一つの空間が前提されているということを何も考えない。こうした前提を暗黙裏に立てることが、「学問」というものを立ち上げる一つの手move(実践)になる、「社会思想の文献伝統に同一化」することなのだと気づかない。サックスがデュルケムの自殺の定義、ウェーバーの客観性の定義が彼らの専門的学問を開始する手になっていると指摘したことは、知識としては知っていても、自らの実践にまったく反映させることができない。





恐らく、多くのEM研究者は、「こんな問題を考えて何の役に立つんだ」「何でそんな問題を考えねばならないんだ」と反論するのだろう。しかし、これはEMのロジック、ポリシーの帰結だ。だから、こういう反論をしたい人は、EMのロジック、ポリシーよりも優先するものがあるって自認しているようなものだ。つまり、実はEM研究者ではない。

しかし、面倒なのは、あらゆる学術的な実践につきものだが、こういうEM研究者もどきがEM研究者の代表といった顔をしていることだ。確かに、学問は様々な雑多な活動の集体だ。こういうEM研究者もどきがEM界隈にたくさんいて、その活動もEMという統一体に無関係ではない。「エスノメソドロジーがこの要求[社会思想の文献伝統に同一化せよ]を拒絶しても、他の者がエスノメソドロジーに成り代わって文献伝統を構築しようとする機会が生み出されるだけ」というわけだ。恐らく、EMは、EMもどきに対して、その自らの反論がどういう実践的な手となっているのかということを、いつまでも教示し続ける必要があるのだろう。EMもどきは色々な活動の形で限りなくわいてくるに違いない。恐らくだが、リンチとCAとの最近の論争の根は、結局こういうところにあるんだろうと思う。

リンチの『科学的実践と日常的行為』にも先の引用とほぼ同じことが書いてあるが、もうその出版から25年がたった。EM研究者の宿命とは言え、リンチもいいかげん面倒くさいと思っているだろう。




ところで、前から不思議なのだが、日本では「専門はEMとZイズムです」とかいう人がいる。EM研究者であり、かつ学問的に政治的Zイズムの主張もしてるとかいう感じで。例えば、リンチが自身を「EM研究者でありかつ革新派モラリストだ」とか言ったら、後者はプライベートの問題なんだろうと理解するわけで、研究者として両者を両立させているなんて誰も思わないだろう。EMって研究者の能力の半分でできるほど、チョロいものなのか? そんなバカな(と思うでしょう?)。でも、日本では、こういう人が存在するし、これを要求する人もいる。どうして頭の中にEMと構成的分析が共存しているのか、それを要求するのか? 訳が分からない。結局、自分のやっていることをよく考えていない、あるいはEMを実践することをなめているんだろうとしか言いようがないと思う。EMもどきの一形態と言ったところか。

昔々、EMとX主義両方研究者としてやっているという某氏と話をしていて、「・・・は、ポストヒューマンの時代が・・・とか言ってる」なんて言うんで思わず「あはは」とか笑ったら、すごいシリアスに「ハラウェイだってそういうこと言ってるでしょ」と説教をされた。「え、今は、EM研究者じゃなくて、X主義者かよ。額の真ん中に点滅式のサインでも出しておいてくれよ」と思った。EM研究者が「ポストヒューマン」の研究してますとか言ったら失笑ものだろうが、X主義者としてはシリアスな話題になるわけだ。この種の人は面倒くさくていけない。




かつて、ある若手EM研究者が、EMを勉強し始めたときのことを話してくれたが、彼は「最初は論文をどう書けばいいのか全然分からないので、一生懸命EM論文を真似て書いては、それを研究会で発表してぶったたかれることを繰り返した」と言っていた。どんな学問もそういうところがあるが、論文作成フォーマットを持たないEMはことさら書くのが難しい。彼のしたことは正しいEMの学び方だと思う。そういう苦労をみんなしてEM論文を書ける、EMを実践できるようになるんだと思う。

で、次の問題は、EM研究者は、まさに様々なEM文献が示すとおり、その時、自分は何をどう考え、何をしているのか、ということになる。つまりエスノメソドロジー的にエスノメソドロジーを分析すること。一体いかにエスノメソドロジー研究家はエスノメソドロジーを書いているのか? リンチがガーフィンケルの提唱した「固有妥当性要求」を「読者に方法を適切に教示すること」つまり「EMを適切に書くこと」と定義したことの理由が分かろうというものだ。聞くと語るは違うが、話すと書くもまったく違う。こういうことをちゃんと考えておかないから、EMのつもりでいつの間にかEMもどきになっちゃうわけだ。

無論、EMもどきの仕事を全否定するつもりはない。もどきをすることも状況によっては必要なときはある(私もさんざんやりました)。そして、EM研究者は、ある部分、必然的にEM研究者もどきでもある。だから、重要なのはもどきの自覚なのだ。そして何かあれば、もどきではないEMを語り、書けるということなのだ。もどきではないEMを書くこともできず、自分のしていることがもどきであることも分からず、真面目なEM研究をしようとする者に対して意見する・・・なんてことは止めて欲しい。そのためにも、EMそれ自体の実践について考える必要がある。これは自分の過去を振り返って思う、自戒の言葉です。



(続)

介護メモ

親が1ヶ月半の入院を終え退院することになった。


3月頭
地元のクリニックから電話
1ヶ月以上高熱(38〜39度)が続いており、抗生物質を使っても下がらないので、検査入院を、とのこと


4月3日入院当日
8:40東京発
10:10施設着
11:00病院着 受付 
11:30予約時間
13:00予約時間を大幅に過ぎてようやく診察、検査入院決定(予定10日)
14:00病院内コンビニで入院必要物一部購入、及び病衣レンタル契約(2週間)
15:30施設に経過報告、入院必要物回収
16:30病院に戻り、入院必要物搬入
1830東京着


13日退院予定日
病院から連絡なし
こちらからtel、看護師「医師からtelする」と言うも連絡なし


26日入院から4週間
病院から連絡なし
こちらからtel、看護師「医師からtelする」と言うも連絡なし


5月7日入院から1ヶ月
ようやく医師から連絡
熱は下がらず、心臓のCTを実施したい、詳細は直接面談で、と


5月10日
12:45病院着
13:00面会予約時間
13:30ようやく医師と面談
データを見つつ状況説明を受ける
発熱原因特定できず、さらに入院2週間延長
看護師、病衣がない+回収されてない、と指摘

14:30病院内コンビニに行き、レンタル病衣の件を質問
言い分は;病衣契約当初契約通り2週間で終了 レンタル業者は病院(看護師)と連携せず 業者からも病院からも連絡なしだが、業者は連絡する義務を負わない レンタル再契約は病院内コンビニでのみ 病衣回収は出されている限りのみ有効

熱で意識朦朧の患者にそれを要求するか? 結局、家族がたびたび来ることがすべて前提とされていることを知る

再度看護師の元に行き質問
入所施設で対処してもらえないのかと逆質問される
仕方ないので、入所施設へ直接行く

15:30施設にて
言い分は;レンタル再契約は不可能 病院訪問の義務なし 本来入院1カ月で退所要求できる 入所待機者いないので要求しないだけ
要するに何もする義務はなし
市に相談したらと言うので市介護長寿課へ行く

16:30市
言い分は;病院のソーシャルワーカーへ行け
さすがに少し切れる 介護システム間の連携不足、無関心、無知を指摘
しかし、連携を図る仕事はソーシャルワーカーの仕事の一点張り

19:00東京着
疲れる


23日(今日)医師から連絡
抗生物質+ステロイド剤投与で熱は鎮静
退院へ

ドライブレコーダー・ブーム

ここのところあおり運転が話題になって、ドライブレコーダーDRがよく売れているらしい。

車で走っていると実際、本当に信じられない光景を目にすること、そして恐い思いをすることが結構ある。

深夜中杉通りの真ん中で自転車ごとひっくり返って寝転がっている人間(酔っ払い)を見たこともある。手前で車を止め「大丈夫ですか?」と降りて声をかけたら「バッキャロー。向こう行ってろー」と返されたので、「ああ、そうですか」とその脇を車で抜けた。また、すでに赤信号になっているのに、青信号で走り始めた車に急ブレーキを踏ませて停止させ、片側3車線の目白通り交差点を自転車で爆走横断してゆく人間(オバサン)を見たこともある。目を疑った。

相手が車なら(物損事故)まだいいが、人間なら(人身事故)どうなるだろうと考えると、自衛手段としてDRをつけようかと最近真剣に考えている。

今までで一番恐かった経験はこんな感じ。


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今からもう15年ほど前。当時所沢に住んでいて都心から家に帰る途中。車は長く乗っていたレガシィワゴン2.0TS-R(BG5)(ヘッドライトはハロゲン)。時間は初夏の夜7時頃。場所は東京都小平市、青梅街道(上下片側2車線)下り。
https://www.google.co.jp/maps/@35.7366246,139.5194853,3a,75y,282.92h,91.49t/data=!3m6!1e1!3m4!1sgpvJsABrfyVuCVdWbV7BNw!2e0!7i13312!8i6656?dcr=0

ここは青梅街道の長い直線区間。制限速度は50キロだが、信号間距離も長く、スピードも出やすいところ。上り方向は大渋滞していて2車線とも極低速走行。夜なのでその渋滞する大量の車のヘッドライトが下り車線を走っていると非常にまぶしい。対して、たまたま下り車線はがらがら。前にも後ろにも車がいない。街灯もない直線道路の遠い先に青信号が見える。

まぶしさを感じながら中央より車線を60キロほどで走行。速度超過と言えば確かにその通りだが、通常の青梅街道の流れからしたらまったく普通以下の速度。

想定外は、恐らくは信号間の距離が長いせいだろう、横断歩道のある信号まで行くのが面倒で、信号機がない場所で上下4車線の青梅街道を渡ろうとする歩行者がいたこと。その人間(恐らく高齢男性)は青梅街道下り中央より車線のど真ん中に立ち、渋滞する上り車線の車の間を通るために、下り方向を見ながら車が停止するのを待っていた。しかも、黒っぽい着物(和服)を着て! 

つまり、こちらからすると、その人間は、頭の先(頭髪)から足元まで真っ黒! しかも対抗車のヘッドライトはまぶしく、自車のヘッドライトは今では信じられないほど暗いハロゲン。その人間は完全に黒い影でしかない・・・。

気付いたときには目の前に人間がいた。ブレーキをけ飛ばすように目一杯急ブレーキを踏むと同時に左に目一杯ハンドルを切る。急ブレーキで前輪が瞬間ロックしてギッとスキール音がするが、ABSが間髪を入れずにこれをリリース。扁平率45の薄い前輪タイヤのショルダー部分がぐにゃりと歪むのが分かる。だがABSのおかげでタイヤを歪ませながらも車は左に曲がってくれた。急減速したが恐らく速度はまだ40キロ。その速度で、その人間の30センチ後ろをレガシィの右フロントフェンダーが抜け(ぶつかると思ったが)、次いで運転席サイドウィンドウを下ろせば手が届くところをその人間は通り過ぎていった。ABSがなかったら間違いなく衝突していただろう。最後までその人間はこちらを見なかったが、自分のすぐ後ろを車が通過したのは分かったはずだ。

「何だ今のは?!」と思った次の瞬間全身に大量の汗が吹き出した。

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あの時ぶつかっていたらどうなっていただろう? 青梅街道夜間、信号機のないところで道路を横断しようと、走行車線の中央に立つ人間、そしてその人間とぶつかる車。大きな人身事故(重症)。もしかしたら死亡事故。過失割合はどうなるのだろう? どのような処罰が来るのだろう? はたしてその後も車に乗っていられただろうか? 今考えても恐ろしい。 

科学という活動(続);Practice Turn

例えば、90年代以降のSTSの台頭を考えてみる。「大雑把に」考えていくつかの特徴が思い浮かぶ。


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1;STSは社会的構築主義がそのバックボーンとなっていた。
2;とはいえ、構築主義の理解の仕方があまりに曖昧、多様で、およそSTSに明確なポリシーがあったとは言えない(「家族的類似」的集体だった)。(cf.ハッキング)


3;STSがSSKに取って代わる。
4;このとき、STS vs SSKの間に論争めいたものがあった、が、はたしてあれは論争と言いうるのか? EM関係者は論争に勝った!と思っているのかも知れないが、STSはEM的スタンスに統一されているわけでも何でもなく、むしろ内的対立の方が下手をするとSSKとの外的対立よりも激しいくらいだ。STSのベースとなる構築主義自体も実は多くの問題(例えば相対主義に関わる)を未解決のままにしている。SSKからSTSへの移行は、論争によってと言うより、なし崩し的なSSKの廃位とSTSの戴冠と言うべきと思う。


5;STSでは、SSKが対象から除外していた自然科学(数学、物理学etc)が新たに対象となった。
6;STS台頭のピークでサイエンスウォーズが勃発する。が、これこそおよそ論争と言える代物ではなかろう。単純な誹謗中傷と言うべきだろう。(戦端がある雑誌のおふざけ投稿論文により開かれたというのも出来過ぎ。)
7;結局、多くのSTS論者はSTSを科学に対する、社会構築主義ベースの新たな規範主義的プログラムと理解した。簡単に言えば、STSとは社会科学者が自然科学(特に産官学一体のビッグサイエンス)の暴走を監視するための規準を提供する社会的装置である。(リンチみたいな記述主義的STSなど例外(だろ?)。)


8;00年代、90年代のSTSの台頭は、他の人間科学分野(eg歴史学)の転換と共に、「Practice Turn」と総括される。
9;この総括の出現とシンクロする形で、STSはブランド化する、つまり、STSは徐々にその詳細を語らなくてもよい紋切り型の語句となってゆく。(「STS」という言葉は、誕生から今に至るまで延々と、ガーフィンケルとサックスが参照したリチャーズの記法に従えば「?STS?」というわけだ。)


10;「社会的構築主義(?)に基づいた、科学に対抗する規範主義的(?)プログラム」としてSTSはますます強固になっている。が、「?」付きの概念が完全解明されているわけではなく、誰もそんな問題を考えなくなったというだけのことに過ぎない。

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仮にいわゆる「Practice Turn」なるものがこんなものだったとすれば、「Practice Turn」などという言葉でなにがしかの変化を思わず語ってしまうことには相当慎重でなければならないと思う。「Practice Turn」という言葉を否定するつもりはさらさらないが、この手の言葉は、「不定型なものを定型と見なせ」という高圧的で教育的な効果を持ちうるし、そこにあるはずの細かな差異を見えなくする効果を持ちうる。紋切り型の言葉が見えなくするものは何か、もっと考えてみてもいいと思う。(少なくとも、個人的には新しいバズワードを追うより、古くさい議論の中にその議論を支える文法を発見する考古学的行き方の方が趣味だ。)


思えば、90年代はエスノメソドロジーにとっても転換の時代だった。つまり、シュッツ派の没落とウィトゲンシュタイン派の台頭。もしかしたら、「Practice Turn」と同じ効果を「ウィトゲンシュタイン派EM」という言葉は持っていないか?、それはブランド化していないか?、もしかしたら、そこには明確に語られないまま忘れ去られた空白があるのではないか?、と考えてみることは重要だと思う。


「科学者が自らについて綱領的に語ることと、彼らが実際にしていることとは違う」とエスノメソドロジーは延々と言ってきたはずだ。エスノメソドロジーという活動にも同じことが言える可能性を考えないでどうしてエスノメソドロジーを名乗れるのか? 

科学という活動

人間に関わる科学はいつも前のめりによろよろ進んでいく。科学は誰も知らないことを記述することを目指すのだから仕方がない。言い方を変えれば、科学には「旬」があると言ってもよい。だから、旬を過ぎた科学ほどつらいものはない。5年前の、いわんや10年前の過去の自分の論文をリライトしたり、まとめたりするのが苦痛でしょうがないあなた、新しい知識を自分なりにまとめようと考えてるときが幸せなあなた。正しい科学者ですよ。 


科学が予期的構造を持つという事実がとりわけ顕著になるのが、特に新しい科学が立ち上がるとき。もう極端に前のめりだから、科学者はいろいろな露骨に変なことをたくさんする。一体どんなことか?――これが私の長らく研究テーマとしていることなのだが、この研究は科学的真理を貶めるような研究ではまったくない。そんなもの、どうでもいい。人々は真理のために何をするか、真理を使って何をするか、真理をいかに配分するか――こうした真理の機能(「構造の構造性」という大昔のデリダの言葉をもじって言えば「真理の真理性といったところか)が問題なのだ。
(どうも、私は、科学をけなすこと、「偉そうにしているけどしょせん人間科学者みんなバカ」みたいに言うことを目的としているように思われているようだが、そんなことはありません。ただ関心がないだけです。)


真理を語る言葉もしょせんは言葉(自然言語)。人は言葉のありとあらゆる素朴な機能、資源を動員して真理を語る。例えば「みんなで渡れば恐くない」式の言葉。新しい科学の構築は新しい評価基準の構築である。身内で言説を参照し合う、ほめあう、敵をけなす、排除するetcなんてのは小学生的だが、これはまったく基本なのだ。科学者のカテゴリーを所有するあなた、この自然言語ベースの実践、あなたも日々やってるでしょう?


そう言えば、90年代、エスノメソドロジストのマイケル・リンチという人が日本に来てセミナーを開いたとき、「ガーフィンケルは、エスノメソドロジーが70-80年代他の社会学者にぼろくそ言われてたし、そもそも人がいいから、来る者拒まず、everybody welcome!!だった。でも、そのおかげでエスノメソドロジーはぐちゃぐちゃになった」みたいなことを言っていた(同じことをどこかで書いていたような気もする)。なんと未熟な科学!!
(リンチは、晩年のガーフィンケルについても、「若い女が寄ってきたからっていい加減なこと言わないでくれよ」って苦々しく見ていたんじゃなかろうかって思ってるんだけど、本当のところどうなんでしょうね。) 


だから、科学は意外にと言うか、当然にと言うか、一番肝心なことが語られないで空白のままということがしばしばある。中心に巨大な質量を持つ空白部分があって、その周りを大量の言説が行き交うような。こうした空白を見つけることは、特に科学が立ち上がってゆくときの分析のポイントになる。いつどこで誰がどのように、語られてもおかしくない言葉を差し控え、遠慮し、押し黙るのか? 沈黙はれっきとした科学という活動だ。


科学の境界には論争があるなんて信じて論争史を一生懸命研究している人がいたりするけど、せいぜいそういう場合もある程度のことで、基本的には間違っている。科学の境界には論争などない。無視と沈黙と忘却と、さらに言えば一方的な毀誉褒貶、換骨奪胎があると考える方が正しい。ちょっと社会学者同士の関係を考えてご覧なさい。


無論、科学の境界で論争を組織してやろうとか考える人がいたりすることは当然ある。でも、そういう人がどういう身分で、いつどのようなときに、その言葉を語っているのか、よく見てみる必要はある。すると、そういう人はたいてい科学者とカテゴライズされず、編集者とかカテゴライズされているのに気がついたりする。かつて編集者に妙な権力があった時代があったが、それはこんな事情によるわけだ。科学者と編集者(出版業者)の関係は単に本を出す出さないの関係ではない。だから、間違っても編集者が科学者になろうなんて思ってはいけない。編集者の資質と科学者の資質は違う。


科学が立ち上がる時、こうした関係は露骨に耳目を引く現象として現れるが、やがて科学が通常科学となると、こうした関係がルーティーン化し、「見られながら気付かれないもの」とされてゆく。(「科学には見られながら気付かれない規範がある」とシュッツ的なことを言っているのではない。「「見られながら気付かれない規範がある」という信憑を科学は利用している」のだ。)中心の空白は言説を定常的に産出するために普通に利用される。そんなことに拘っていては、前に進めないではないか!


ついこの前までごたごたしていたのに、いつの間にかみんな忘れてしまう、というか、多くの科学者が忘れたふりをする。20年もたってから「昔、あのときあの人はこんないい加減なことを言っていた」なんて誰も言わない。科学は予期的構造を持つ活動なんだから、結局みんな適当なことを書き散らしているわけだ。昔の論文なんか間違いだらけだ。「昔の論文を今の規準で叩いたら切りがないだろ。みんな、そういう恥ずかしいことしているじゃないか。自分の昔を思い返してみろよ。やっぱり恥ずかしいだろ。」――これが大人の態度ってものだ。これも「みんなで渡れば恐くない」という能力の一つの現れと考えるべきだろう。ここにもいろいろ技術がある。忘却の技術の他、後知恵の技術なんてのもある。後から前に言ったことを「そんなつもりで言ったのではない」と自らのテクストを自ら解釈する。素晴らしい能力だ! 


いずれにせよ、こうした技術によって科学は必然的に回顧的構造を持つ。予期的であることと、回顧的であることとは異なる現象ではないのだ。科学者は真理を目指す。だから非真理と語られることは科学者たるもの絶対にあってはならない。だから、科学は知のシステムであると同時に、無知のシステムでもある。そして、その結果として、すべての科学は予期的かつ回顧的なのだ。そして、この時間的構造において、真理と権力が結びつく。


ウィトゲンシュタインが心理学を徹底的に解体したはずなのに、心理学は傷一つつかず今も存続しており、むしろ消えていった(いく)のはウィトゲンシュタインの思想の方だったというハッキングも指摘する皮肉は恐らく、こうした科学という活動の基本的なあり方と関係しているのだろうと思う。


さらに、真理の内容に無関心と言いながら、通常科学化したエスノメソドロジーという科学の運命はどうなんだろうと、ふと思ったりする。エスノメソドロジーの言説産出の方法はどのようなものなのだろう?――と、つい前のめりに考えてしまう今日この頃なのである。

日常の中の空隙

ごくたまに自分の日常的な生活世界の中に非日常的な空間が深い底知れぬ穴のように空いているのに気付いて驚くことがある。




生い茂ったまた朽ちた木々と雑草と蔓、地面に落ちたいくつもの大きな柑橘類の実、黴に被われ人気のない古びたアパートらしき家屋、そして、その風景の中に、80年代一世を風靡した赤いトヨタセリカXX(A60型)――2Lだろうか2.8Lだろうか?――が、汗の流れ落ちる暑い夏の日の午後、倒木と泥に覆われ、閉じた右のリトラクタブルヘッドライトだけをこちらに向けて、ひっそりと眠っている。君はいつからここで眠っているんだ? 20年前からといったところかい?


一体自分はどこにいるのだろう?と空間感覚を狂わされるが、ここは東京都心、随分長いこと通勤している大学と最寄り駅とのほんの数分の道から一本裏道に入ったところなのだ。今までさんざん多数の人と車が頻繁に行き交う街路を歩きながら、その街路のすぐ裏にこんな風景があろうとは・・・。


かつて六本木周辺を歩いていたとき、スウェーデン大使館から数十メートルのところで、永井荷風がかつて住んだという偏奇館周りの無人の腐ったような古い建物群が密集した一画に迷い込んでしまい、時空間が歪むような感覚を覚えたことがあったが、それに似た感覚を久しぶりに感じた午後4時半だった。