翻訳

翻訳にはいくつか閾というものがあるように思います。

a;どうにも翻訳文に違和感があって原文を確認したくなる地点。

b;どうにも翻訳者に信頼が置けなくなって原文を読み始める地点。

大概はaあたりで止まるんですが、あまりに頻繁にaに遭遇したりすれば徐々にbに移動するし、あまりにひどい誤訳に遭遇すると、いきなりbに移動することもあります。

 

最近久しぶりに後者を経験しました。

 原文

Button (1993) speaks, for example, of the 'disappearing technology', where the social sciences posit tools, artefacts, objects etc. as the topic of interest, but analytically disregard how technologies are embedded in the practical accomplishment of social action and interaction

翻訳

例えば、Button(1993)は、社会科学が道具や人工物、物体等等を関心の的として捉える領域である「消えつつある技術」について言及しているが、いかに技術が社会的行為や相互行為の実践的遂行に埋め込まれているかということについては分析の対象外としている。

「speaks」と「disregard」を並列で訳してます(並列なら「disregards」のはずなのに)。これじゃ、Buttonさんはお馬鹿さんです。一応有名大学の先生がこの訳をするかな・・・。ひどすぎます・・・。

しかも、この訳者、句動詞「orient to~」が訳せません。

原文

Both patient and doctor are not only sensitive to the use of the system, but sensitive to how the other orients to its use

翻訳

患者と医者の双方ともそのシステムの利用に敏感なだけではなく、他者がその利用をいかに方向付けるかということにも敏感である。

「orient O (to~)」と勘違いしてます。「orient to~」、頻出なんですけど、その度いらいらします・・・。

 

今日、別のある本をぱらぱらと見ていたら、こんな引用が・・・。

翻訳引用(「」内)

エスノメソドロジー研究者は「社会現象の性質を『発見(discovery)』したいという志に動機付けられており、社会のメンバーにとって既知であるもの(実践的な出来事に熟達するという形で「知られている」もの)の『再現(recovery)』に着手した」記述を行う

原文

It is not motivated by the aspiration to make discoveries about the nature of social phenomena, but to undertake the recovery of what is already known ー but is `known' in the form of competent mastery of practical affairs ー to the
members of society.

「recovery」を「再現」とするのも、「to undertake」を原文の修飾関係を無視して引用するのもひっかかるんだけど、そんなのもちろんどうでもいいことです。だって、「not」の見落とし・・・むむむ。

というか、日本語書いていて、気付かなかったかな・・・。まあ3年も前の本なんで、筆者(pl)(+編者) 、さすがにもう気付いてますよね(?)。

2刷りが出るのであればその時修正すればいいんですけど、この本、出版社の都合で2刷りは絶対出ないんですよね・・・。修正するチャンスは永遠にない・・・。アーメン。

 

 

翻訳って恐いですね。

 

 

 

 

 

論理の実践

学説史的関心が旺盛なEM/CA研究者は多いが、彼らに関してどうにも疑問なのは、彼らが、様々な社会学文献、哲学文献に展開される議論の論理構造に対して、およそEM的な知的訓練を受けた人間とも思えぬ、恐ろしくナイーブな態度を取っていることである。

彼らは様々な文献――EM文献、社会学文献、現象学文献、分析哲学文献etc――の論理構造を抽出して比較考量し、同じだとか違うとか、影響関係があるとかないとか、延々と議論する。まあ、学問なんて突き詰めれば、好き嫌いだから、そういう趣味の人がいてもいいとは思うのだが、その趣味をもって「私はEMのエキスパートです」みたいな顔をされると、「それって大切だけど、EM研究者にとっては余技でしょ」とか思ってしまうわけで・・・。やっぱり、余技をするときは所詮余技という自覚を持って欲しいなと思う。

 

彼らが勘違いしてしまう理由を昔から考えているのだが、論理(議論の論理構造)に対するEM的態度というものを理解していないからではなかろうか?、と最近は考えるようになった。

EMにとって、論理は理念であり抽象であって、いかなる場面においてもその具現化は実践的達成である。あらゆる文献はこの実践的達成に指向している。そこでは読み手に対するデザイン(受け手デザイン)が駆使され、効果的な図表、トランスクリプトが配置され・・・つまりは様々なワークが組織される。例えば、「最初に、テーマに関する過去業績のサーベイを行い、次いでトランスクリプトを配置して、非明示的にそのトランスクリプトを自らのテーマに沿って読めという教示を行う」なんて、EMCA文献にありがちだが、これはワークによる論理の立派な達成だろう。

論理とはワークによる達成であり、まずそのワークにこそ注意を向けてこそEM研究者を名乗れると思うのだが、様々な文献(EMCA文献を含む!)に対して、日本のEMCA研究者はこうした注意関心を向けることができているのだろうか? ‘EMCAの’論理はトランスクリプトの配置に負うところが非常に大きい。効果が絶大なので、とりあえずトランスクリプトを載せておけばいいや(EMCA文献として読んでくれるだろう)と考える人間が大量に現れるのはよく分かる。しかし、ワークとしてトランスクリプトを考える人間がいてもいいのではなかろうか?(・・・ということを5年以上前から言っているのだが、反応してくれた方は片手で数えられるほど。)

 

実践の論理はもちろんだが、論理の実践がもっと考えられていいと思う。

 

EMは消滅してしまったのか?

ガーフィンケルの『EM研究』出版から半世紀経ったわけだが、ここ数年、EM大御所がEMの現状に関して恐ろしく悲観的な論考を発表している。

今年、シャロックの退官記念論文集に寄せたリンチの論考も悲観的だった。EMにとってよかれと思って論争をしようとしているのに、現在のEM業界では、内部抗争を引き起こすものであるかのように扱われてしまう――というリンチの暗澹たる気持ちがそこには書かれており、読むのがつらかった。

 しかし、何よりも衝撃的だったのは、シャロックが退官したその年(一昨年2017年)にアンダーソンとの連名で発表した、「EMは消滅してしまったのか?Has ethnomethodology run its course?」というタイトルを持った論考だった。

 ある程度年をとったら金太郎アメのような、あるいは「昔の名前で出ています」のような、似たような論文しか書かない(書けない)研究者ばかりという日本の知的風土に生きている人間としては、定年退官しようという人間がまったく守りに入らず、最後まで攻めに攻める超攻撃的な内容にすがすがしさすら感じるラディカルな論考なのだが、一言で言うと、現在のEMをなで切りである*。「EM的に触発されたエスノグラフィethnomethodologically informed ethnography」とかぬかして、がらくたみたいな論文書いてんじゃねーよ・・・って具合に。いや、本当に。

*CAはそもそも相手にされていない。注に以下のようにある。「我々の問題はガーフィンケルの研究により具体化された探求の様式としてのEMである。我々はこの課題にCAを含めない。CAがEMにその起源を持つことは知っているが、CAは長く独自の道を歩んできた」。日本では通用している「専門はEM/CAです」なんて自己紹介は通用しないということを、日本の「EM/CA」研究者は思い知るべきだろう。

 内容は難解極まるので簡単な要約を許さないが、シャロックらの提言の核心は「EM的態度をEMのワークそれ自体に差し向けろ」というものだ。日本のEM/CAの専門家(とやら)は、このシャロックが退官に際して残した論考を読みこなして、この提言を受けとめ、自らその意志を継ぐ覚悟があるだろうか? ないだろうな。

 

個人的には必読と思うので、宣伝として以下に冒頭(プロローグ)の抄訳を書いておく。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

プロローグ

この論文は、書く気をなくさせる論文だった。主題はEMにおける現在の探求の欠陥である。我々は好き好んでそう言いたいわけでもないし、好き好んで言わねばならないと感じているわけでもない。しかし、我々は、EMは沈滞し、分析的に、刺激も興奮も失っていると感じている。………我々が望んでいるのは、EMのエネルギーを再方向付けし、そのワークを再活性化する方法に関するEM内の論争を促すことだ。その論争を通じて、我々は、我々がここで明らかにする事実に説得されることはない者であっても、我々の提案に価値を見出してくれることを願っている。

最初に、最重要なことだが、我々は、EMが根本的に、修復不能に欠陥を抱えているなどと言いたいわけではない。今日出版される多数の業績を見ると、EMは道に迷っているように見えるのだ。かつてその駆動力だったもの、その使命だったもの、その存在理由だったものは、我々が記述する特徴のアマルガム、複合体によって、部分的に取って代わられてしまった。我々が今目にしているのは、我々が最初にEMに出会った時発見したEMではないし、そして間違いなく、我々がEMがそうなるであろうと想像していたEMではない。

 第2に、量に注意する必要がある。我々は、圧倒的多数の発行される研究の量について語っているのであって、個々すべての研究について語るわけではない。無論、優れた研究もある。だが、それは発見するのが極めて困難だ。発行される量からして、EMは疑いなくブームだ。問題は、ますます増殖している、ありきたりで、平凡で、退屈なものに対する、洞察に富み、観察鋭く、特徴あるものの比率であって、我々を悩ませるのはまさにこの比率の低下なのだ。もし我々がグレシャムの法則が学術研究には当てはまらないと考えるなら、我々はバカ者だろう。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 

 

 

 

 

 

  

 

社会科学者

社会科学者は提言をする――「あーするべきだ、こーするべきだ」。

これをしないと社会科学者と‘基本的には’認めてもらえない。

この提言をする能力は、無論立派な能力である。

様々な提言の歴史を踏まえ、自分をそこにどのように位置づけるかを測定することなしには提言などできないだろう。

 

ただ、学者は提言の結果に責任を持たない。責任を持つのは政治家と、これまた‘基本的には’決まっている。

まあ、こういう分業がこの世の中にはあるわけだ。

これはこれでよい、と言うか、仕方がない。

 

しかし、社会科学者にはこの無責任さが染みこんでおり、これは何とかならないのかと思う時が多々ある。

自分が責任を取りようがないことに関しては「あーするべきだ、こーするべきだ」と滔々と語るその人間が、(例えば学内の会議などで)いざ責任を取ることが出来る事柄になると、日頃のリベラル改革主義の主張はどこへやら、俄然頑迷固陋な保守主義者として旧態依然とした抑圧的決定を平然と行う――ありがちである。

 

なんとかしてくれと思うが、これぞ「カテゴリー拘束活動」と言う必要もある。

勤務先報道機関のポリシーに応じて、左でも右でも議論を展開できる編集者も同じだろうが、これが能力でなくて何であろうか!

まさにこうしたカテゴリー拘束活動の能力こそ、「社会科学者」の能力の核心なのだろうと思うのだが、社会科学者のあなた、どう思うか?

 

 

 

 

 

 

お手元の商品は

有名ECで日本大手メーカーの時計を買った。

 

商品到着の翌々日検品したら、日付が動かない。一段リューズを引き出して動くはずだが、リューズは空回りするだけ。

 

仕方がないので、返品しようと返品ボタンをクリックすると、「この商品は返品できません。カスタマーサービスに電話連絡して下さい」と初体験のメッセージが出る。商品欄には「返品不可」の表示などはない。「返品できないってどういことだ?」と思いながら、表示された電話番号を見ると北海道。まさか日本語が上手く通じない消耗な会話をする必要があるのかと覚悟しつつ、電話すると普通の日本語が帰ってきた。

私「買ったばかりの時計、日付が変わりません。初期不良として返品したいです。」

CS「少々お待ち下さい・・・・・・・・・お待たせしました。この商品は返品できません。」

私「ええっ・・・動かないんですよ!明らかに初期不良じゃないですか!!」

 

ここから奇妙な会話になる。

CS「最後までお聞き願えますか?」

私「???・・・はい、いいですよ。」

CS「この商品は返品はできません。が、返金はします。」

私「は?」

CS「返金はしますので、お手元の商品はお客様の方で廃棄して頂けますか?」

私「廃棄?」

CS「はい。」

私「?・・・分かりました。」

CS「返金処理は即座に開始し、2~3日後には実行されます。よろしくお願い致します。」

私「はい、よろしくお願いします。」

 

通常の機械製品であれば、初期不良品は正常動作品への交換が基本。が、この大手ECは信じがたいことだが、返品もなしに返金である。いかなる経済合理性がここで働いているのだろう? まったく分からない。

 

が、かくて、結果として、私は、日付は変わらないがそれ以外は正常動作する、そう簡単には買えない額の新品時計を大手ECからプレゼントされたのであった。

 

 

 

タイムラグ

9月29日日経に以下のような記事が出た。
「AI研究者が大手学術誌に投稿拒否、論文はだれのもの」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35881360Y8A920C1TJM000/


しかし、この投稿拒否声明は実際には4月末に出されている。
「Thousands of academics spurn Nature’s new paid-access Machine Learning journal」
https://techcrunch.com/2018/05/01/thousands-of-academics-spurn-natures-new-paid-access-machine-learning-journal/
(この手の話題は30年近く前からある。)


論文1本が40ドルなどという最近の欧米専門科学ジャーナルの高騰、そして専門機関に対するパッケージ契約圧力が問題化しているのは誰しも知っており、さらにアングロ-アメリカとの情報戦争を旧東側某国トップが2013年宣言したのも誰しも知っており、そして、こうした状況とちょうどシンクロする形で、アンダーグラウンドに、ジャーナルの有料サービスを無効化するサイト、200万超の本、500万超の論文所蔵を謳う巨大ライブラリーサイトが出現していることもこれまた誰しも知っている。


しかし、なぜか、この誰しも知っていることが日本では情報として流れない。やっと日経で流れたと思ったら5ヶ月遅れ・・・。いろいろな力があるんだろう。

あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください5 memo2

昔あるシンポでJim Heapはある「関心」を語った。読んだのははるか昔院生時代だが、その時アメリカの社会学をとてつもなく羨ましく思ったのを憶えている。日本で同様の趣旨の発言、論文を見たことがあるだろうか? 私はない。こうした発言ができる研究環境、こうした「関心」を許容する研究環境を今でも本当に羨ましく思っている。恐らく、こうした「関心」を表明できないことが日本の社会学、そしてEMの不幸なのだろうと真剣に思う。

"When is phenomenology sociological?" Why would we want to answer that question? It suggests some kind of discipline concern. It seems to me to be motivated by a concern that we can only play with certain kinds of things that are in our own yards, and we have to figure out when this animal gets in our yard, because that is the only time we can play with it. Now, we might want to think whether there is some kind of academic motivation behind this question. I am concerned about that. That seems to me to be an
unfortunate concern,
because it buys into the notion that there is a discipline that has certain boundaries, it has this yard, it has this space, it has limits. My concern would be that we would not want to accept these limits, we wouldn't want to pre-define our interests, so that if the animal began leaping across the fence we couldn't follow it, because after all we are sociologists.
I would want to follow the animal.